03/31 wed
『探究 1 』柄谷行人(講談社学術文庫)。
逆にいえば、ダイアローグ、あるいはポリフォニックなものとは、声や視点を多数化することによって得られるのではなく、もはやいわゆる対話が不可能な地点において「他者に語る」ことから生じるのである。( 205 頁)
「ポリフォニックな小説」などと、簡単に語ってはならない。
表面的な多数性にもかかわらず、モノローグ的な小説はたくさんあるのだから。
というより、そのような小説がほとんどなのだから。
逆に、カフカの小説は、ほとんど独我論的な世界に見えるのに、ポリフォニックだ。
もちろん、その差異は他者性にある。
今日だけで 100 通以上のウイルスメールが。
テレビを見ながらビール 3 リットルと睡眠薬。
03/30 tue
『探究 1 』柄谷行人(講談社学術文庫)。
彼らにとって耐えがたいのは、何かをいう (say) ということが、いつも別のことを意味してしまう (mean) ということなのだ。あるいは、「意味する」ことが、自分自身(私的規則)によるのではなく、まったく他者に依存してしまうという条件なのである。( 97 頁)
べつにドストエフスキーの登場人物にかぎられることではなく、これはボクたち誰もが誰かとコミュニケーションするときにおかれる条件である。
意識にのぼることはまずないとはいえ、ボクらはそれをうすうすは知っている。
ただ、それは、コミュニケーションの不可能性に絶望するような状況でではない。
そのような不可能性を前提としてコミュニケートするときにだけだ。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/29 mon
『探究 1 』柄谷行人(講談社学術文庫)。
われわれは、二者択一に追いこまれているようにみえる。「意識」から出発することで、形式的な体系の内部にとじこめられ、それを "脱構築" したりまたは "観念的" にそれを破砕してしまう方向をたどるか。それとも、バフチンのように客観的(外在的)な視点から言語の社会性を考察し、モノローグ的な意識 = 単一体系を批判するか。しかし、このいずれも、マルクスのいう神秘 = 社会的なものに触れてはいない。( 49 頁)
たとえば、「内省と遡行」では前者の方法の徹底的な吟味と形式化がなされている。
この「転回」はいつ読んでもすがすがしい。
元気がでる本だ。
『モオツァルト・無常という事』小林秀雄(新潮文庫)所収「雪舟」「偶像崇拝」、読了。
歴史家には、ある絵の様式とは、ある時代の社会的制約の結果と見えるが、画家には、社会的制約とは、その製作の動機という内的原因のうちに取入れられた、自由に戦うべき敵或は自由に利用すべき味方の事であり、いずれにせよ、立派な画家は思う通りの事を遂行した。( 156 頁)
しかし、これはべつの意味で歴史主義ですよ。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/28 sun
馬券は 2 戦 2 敗で 3 万円のマイナス。
『隠喩としての建築』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「八十年代危機の本質」「アメリカの思想状況」「中上健次への手紙」「サイバネティックスと文学」「凡庸なるもの」「リズム・メロディ・コンセプト」、読了。
同書、読了。
しかし、梶井ほど「意味としての結核」から無縁であろうとした作家はいない。たとえば内面的にみえながら、彼はいささかも内面的ではない。「健康」という語をニーチェがいった意味で用いれば、梶井の文体は「健康」である。しかし、いうまでもなく、それは「病者の光学」と切りはなすことはできないのである。( 272 頁)
梶井の文章には、叙情に流されるなにものもないものね。
『批評とポスト・モダン』柄谷行人(創元社福武書店)所収「凡庸化するための方法」「文科系の数学」「ポール・ド・マンの死」「テクノロジー」、読了。
同書、読了。
他方で(日本の文脈では不必要な)緊張を強いられることになった。ド・マンを圧倒してやろうとするのだから。この人は、思想的におそろしく懐が深かったので、私は全西洋思想史を相手にしなければならないような気がしていた。それはきつかった。( 269 頁)
そのような緊張がなければ、「言語・数・貨幣」のような仕事はなされなかっただろうし、したがって『探究』でのあのような転回も見られなかったはずだ。
競馬予想 TV の特番を見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/27 sat
ビール 1 リットルで朝寝。
ビール 1.5 リットルと睡眠薬で昼寝。
馬券は 2 戦 1 勝で 12 万円のプラス。
酒を飲みながら競馬をやっちゃだめだってば。
『批評とポスト・モダン』柄谷行人(創元社福武書店)所収「反動的文学者」「街の眺め」「占星学のこと」「断章」「「反核アピールについて」再論」「ブタに生まれかわる話」、読了。
「科学」は、形式的な演繹にかけては比類のない能力を示したギリシャ人からは生まれてこなかった。アブダクションは、けっして当てずっぽうの推測ではなく、暗黙の信仰にもとづく仮説形成なのだ。ニュートンの万有引力の法則は、まったくアブダクションによるものだが、アインシュタインの相対性理論にしたところで同じことである。( 259 頁)
こういう文脈でデカルトを読むとしたらどうなるんだろう。
たぶん、『方法序説』と『省察』との差異が問題になるんだと思う。
テレビを見ながらビール 2.5 リットルと睡眠薬。
03/26 fri
『批評とポスト・モダン』柄谷行人(創元社福武書店)所収「文体について」「私と小林秀雄」「懐疑的に語られた「夢」」「『門』について」「『草枕』について」「安吾はわれわれの「ふるさと」である」「唐十郎の劇と小説」「感じることと考えること」、読了。
私はこういうタイプを否定しないが、べつに評価もしない。それは日本のいわゆる "若者" に対する場合と同じである。実際にペーパーを書かせると、支離滅裂であるだけでなく、空疎な概念を濫用するし、私はとうてい彼らの "フィーリング" など信用する気になれないのである。( 206 頁)
この意味で、実践的に研究をし、きちんとペーパー(いまはもちろん「紙」には書かないんだろうけれども)を書いてきたであろう人を、ボクは尊敬してる。
テレビを見ながらビール 3 リットルと睡眠薬。
03/25 thu
『デカルト選集 第三巻』(創元社)所収「精~指導の規則」野田又夫譯「書簡集(三)」市原豐太譯、読了。
同書、読了。
辯證家たちはさういふ規則によつて人間理性を支配しようと考へ、そのために一定の議論の形式を定める、しかもこの形式たるや全く必然的に結論に導くもので、それに頼る理性は、どうかして自己の推論の明白な細心な考察を怠ることがあつても、やはり、その形式の力によつて、なにか確實な結論に到達し得る、とせられる。( 147 頁)
弁証家における三段論法を、ここでデカルトが徹底的に批判しているのはおもしろい。
それはもちろん弁証家だけを標的にしているのではないからだ。
『批評とポスト・モダン』柄谷行人(創元社福武書店)所収「梶井基次郎と『資本論』」「仏教について――武田泰淳の評論」「森敦の『意味の変容』」「交通について」、読了。
"交通" という概念は、中心を斥けるのではなく、中心のたえまない移動、中心そのものの偶然性を意味するのだ。( 162 頁)
このサイトのこのコンテンツなんて、まったく交通から隔離されてる。
どっかと論争でもやろうか。
なんつって、論争が戦争であり交通であるとしても、論争しているように見えるサイト同士が、まったく交通の遮断された共同体内部での喧嘩しかやってないということがよくあるものね。
テレビを見ながらビール 3 リットルと睡眠薬。
03/24 wed
『デカルト選集 第三巻』(創元社)所収「省察」三木清譯、読了。
私が自由であるためには、私が一方の側にも他方の側にも動かされることができるといふことは必要でなく、かへつて反對に、私が眞と善との根據をその側において明證的に理解する故にせよ、あるひは~が私の思惟の内部をさうするやうに處置するゆえにせよ、私の一方の側に傾くことが多ければ多いだけ、ますます自由に私はその側を選擇するのであるから。( 55 頁)
自由意志と自由との、このちがい。
『批評とポスト・モダン』柄谷行人(創元社福武書店)所収「物語のエイズ」「場所についての三章」「根底の不在――尹興吉『長雨』について」、読了。
デカルト自身は、疑いを彼自身の意思にではなく、啓示にもとめている。それは、ソクラテスが疑いを神託にもとめているのと同じである。それは、疑いが「疑われねばならぬ」という義務や意志からでなく、どこかからくるということを示している。( 101 頁)
その「どこか」を、著者は《それを天啓といった超越性に見いだすのではなく、「場所」に見いだ》している。
ここでいわれる「場所」とは、「超越性」としてあるものではなく、「超越論的」なものを見いださせるものである。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/23 tue
『 Tommy airline 』 Tommy february
6
ときめく〜。
「 MaGic in youR Eyes 」なんて、もう。
あとはやっぱり、消えどきだけだな。
『デカルト選集 第三巻』(創元社)所収「省察」三木清譯。
しかるに一方私はいかに私の精神が誤謬に陥り易いものであるかに驚く。といふのは、たとひ私がこのことどもを自分において默つて、聲を上げないで考察するにしても、私は言葉そのものによつて欺かれるからである。( 30 頁)
思考が、いや、懐疑そのものが、すでに言語によって組織されているという根底的な懐疑。
『批評とポスト・モダン』柄谷行人(創元社福武書店)所収「批評とポスト・モダン」「無作為の権力」「モダニティの骨格」「今ここへ――中上健次」、読了。
彼において、暴力的なものは、本当は肯定の力だ。が、その肯定力は、どんな否定力よりも破壊的である。
何を肯定するのか。《今ここ》である。《今ここ》は、デカルトやフッサール、すなわち内省によって見出される <今ここ> とはちがう。われわれがいう <今ここ> は、すでに《今ここ》の隠蔽にすぎない。《今ここ》とは、いわば、差異化であり、多様性であり、善悪の彼岸である。それに対して、 <今ここ> は、同一性、確実性であり、いいかえれば "差別" である。( 73 頁)
この本をここまで読んできた中では、やっぱり、この中上健次論が屹立してる。
引用されてる中上健次の文章と地の文とが交錯して共鳴してるみたいだ。
いつ中上健次を読み返そうか。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
泣くかと思った。
03/22 mon
『 at the BLACK HOLE 』 YOSHII LOVINSON
『デカルト選集 第二巻』(創元社)所収「書簡集(二)」渡邊一夫 河盛好藏譯、読了。
同書、読了。
從つて、隣國の大部分と友好を結ぶことは有利なことではありますが、最上の方法は自國よりも一層に弱い國々とでなければ密接な同盟を結ばないことであります。( 240 頁)
なんだかんだ言って、デカルトは、彼が否定したがってるマキャベリの『君主論』とけっきょくは同じようなことを言ってる。
マキャベリズムだもんな、これって。
『モオツァルト・無常という事』小林秀雄(新潮文庫)所収「実朝」「平家物語」「蘇我馬子の墓」「鉄斎」「光悦と宗達」、読了。
例えば、ヘーゲル工場で出来る部分品は、ヘーゲルという自動車を組立てる事が出来るだけだ。しかもこれを本当に走らせたのはヘーゲルという人間だけだ。そうはっきりした次第ならばよいが、この架空の車は、マクルスが乗れば、逆様でも走るのだ。( 129 頁)
逆にいえば、マルクスクラスのドライバーでないとヘーゲルという車をさかさまに走らせることはできないってことなんだよな。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/21 sun
ビール 2 リットルで昼寝。
馬券は買わず。
攻めないと。
『批評とポスト・モダン』柄谷行人(創元社福武書店)所収「批評とポスト・モダン」。
《批評》がうしなわれる瞬間ははっきりしている。それはパラドックスを理論的に解消してしまうときだ。そこに動的な文体など生まれようがない。哲学はもともと形式的なものである。( 22 頁)
「《批評》がうしなわれる瞬間」。
デカルトにもそれがあるんだろう。
『デカルト選集 第二巻』(創元社)所収「書簡集(二)」渡邊一夫 河盛好藏譯。
その故は、人間精神なるものは、肉體と靈魂との區別及びその融合を、極めて判明に且つまた同時に理解することは出來ぬやうに思はれるからでございます。蓋し、その爲には兩者を唯一つのものと考へると同時に、二つのものとしても考へねばならないのでありますが、それは矛盾だからであります。( 207 頁)
「同時に」ってあたりが問題なのかな。
括弧入れが必要だってことかな。
とにかく、『省察』を読んでから。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/20 sat
締め切りに間に合わずに当たり馬券を買いのがす。
あいかわらず。
単勝で 9.2 倍ついてたんだけどなあ。
しかも、そのあとも冷静なんだもの。
こういうときは、熱くなって最終レースにぶちこまないと。
ということで、馬券は買わず。
『デカルト選集 第二巻』(創元社)所収「眞理の探究」森有正譯、読了。
實際わたくしは、自分が存在することを結論し確言するに先立つて、存在とは何であるかを知る必要を感ずる程愚な人が嘗つてあつたとは信じません。( 94 頁)
スコラ派との緊張関係を考えないで、この言葉を読んでもしょうがない。
『 ANSWER 』 SUPERCAR
鳴るなあ。
競馬予想 TV を見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/19 fri
『デカルト選集 第二巻』(創元社)所収「哲學の原理」佐藤信衛譯、読了。
或る人はこれについて言ふかも知れない、文や談は心に直接にはその文字の形や音であるだけで、心がその言葉の意味といふものを辨へてそれでこれと關聯ある想像や感情をみづから己の内に起こすのである、と。しかしそれなら快感や苦痛はどうであらう。( 94 頁)
これは言語の物質性をいってるんだろうか。
なんだか、そんなありきたりな表現ではこぼれてしまうようななにかを伝えようとしてると思うんだけど。
言語の外部性というか。
いや、それもありきたりか。
とにかく、保留。
そもそも、保留したいもののために、このメモをつけてるんだし。
テレビを見ながらビール 2.5 リットルと睡眠薬。
03/18 thu
出張で大阪へ。
ついでに買い物を。
Clarks の靴をプレゼントして、 BEAMS のシャツをプレゼントされる。
テレビを見ながらビール 2.5 リットルと睡眠薬。
03/17 wed
『デカルト選集 第二巻』(創元社)所収「哲學の原理」佐藤信衛譯。
實は私は物體についてただそれがあらゆる仕方で分割され形状を持ち運動するといふところだけしか考へてはゐないである。即ち、幾何學者が量といって論證の對象としてゐるものである。( 88 頁)
「本質」の括弧入れ。
ここでは、そのために「神」が要求される。
『ダイアローグ 5 』柄谷行人(第三文明社)所収「夏目漱石の戦争」、読了。
同書、読了。
小森陽一との対談。
「汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百という人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない」( 211 頁)
『草枕』からの孫引き。
すごいね、漱石の感受性は。
『言語と悲劇』柄谷行人(第三文明社)所収「ポストモダンにおける「主体」の問題」、読了。
デカルトが、伝統的な哲学の存在論から訣別するのもそのためです。彼が、もし言語に対して思惟を優先させたとしたら、それは観念的だからではなく、思惟がいかに言語に規定されているかを見出すことによってです。思惟は、けっして言語を超越するのではありません。しかし、思惟が言語の諸条件の中で可能であることを、超越論的に明らかにするような思惟がある。それが、デカルトの思惟であり、主体です。けれども、それが積極的に語られたときには、すでに言語であり、また経験的な主体でしかなくなるのです。( 298 頁)
デカルトのなかにディコンストラクトションをさえ見出すようなこの読み。
でも、先入観を抜いて方法序説とかを素直に読むと、そういう人としてデカルトが見えてくる。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/16 tue
『ダイアローグ 5 』柄谷行人(第三文明社)所収「神話の理論と理論の神話
柳田國男をめぐって」「戦後文学の「まなざし」」、読了。
前者は村井紀との、後者は紅野謙介との対談。
柄谷 フーコーがいちばん批判していたのは、たぶん精神分析の基本的枠組でしょう。彼は、フロイトがエディプス・コンプレックスという概念を考え出した年が、フランスで法律的に家父長制が廃止された年だということを指摘しています。父親の権威が失われた年に、エディプス・コンプレックスが見いだされている。( 312 頁)
起源の隠蔽。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/15 mon
『デカルト選集 第二巻』(創元社)所収「哲學の原理」佐藤信衛譯。
更に、私たちは考を言ひ表はすのに或る言葉を以てし、記憶にはことがらそのものよりはこの言葉が主になるから、ものごとを判明に知らうとするには、それをこの言葉からすつかり分けなければならない。( 51 頁)
そんなことが可能なのかな。
『言語と悲劇』柄谷行人(第三文明社)所収「ファシズムの問題
――ド・マン / ハイデガー / 西田幾多郎」、読了。
そしてそのころ、僕はド・マンに、戦後日本の思想・文学は転向やファシズムへの加担体験の検討なしにはありえなかったこと、中でもとくに吉本隆明のことを話したのを憶えています。( 268 頁)
いろんな感慨がわくけど、理論的なものとしてこの発言をとらえよう。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/14 sun
馬券は買わず。
『言語と悲劇』柄谷行人(第三文明社)所収「政治、あるいは批評としての広告」「単独性と個別性について」、読了。
だから、同じことをくり返していくタイプの人は、ある意味では冷酷無残なわけです。全然そこから経験しない。何も学ばない。また次に夢中になっていく。僕の考えでは、運命的な恋愛とかいうのはほとんどそうですね。( 250 頁)
「運命的な恋愛」だとか「特別な人」だとかすぐに言いたがる人にかぎって、あいてのかけがえのなさにまったく気付いていない場合がほとんどだと思う。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/13 sat
車の整備が終わったので受け取りに。
タイミングベルトの交換と、パワーウインドウの修理で、 11 万円ほど。
金のかかる車だ。
でも、 306 style に乗るようになって、ラテン車好きのひとたちの気持ちがなんとなく分かるようになってきた。
なんか、個性があるんだよな。
運転するのも楽しいし、デザインもいい。
今日もブルーライオンでたくさんのプジョー車を見てきたけど、 206 なんて、ほんとに惚れぼれするようなスタイリングだもんなあ。
あれに乗ってる女の子は、可愛さが 2 割増しになる。
まじで。
馬券は 2 戦 1 勝で 9 万 5 千円のプラス。
『モオツァルト・無常という事』小林秀雄(新潮文庫)所収「実朝」。
暗鬱な気持とか憂鬱な心理とかを意識して歌おうとする様な曖昧な不徹底な内省では、到底得る事の出来ぬ音楽が、ここには鳴っている。( 100 頁)
「曖昧な不徹底な内省」から書かれたようなものって、今でもやっぱりよく売れてるみたい。
うーん、どうでもいいや。
『言語と悲劇』柄谷行人(第三文明社)所収「スピノザの「無限」」、読了。
デカルトの神の存在証明は、証明ではない。それは、主観が共同体(システム)の支配下にあるということ、つまり、自分が有限であるということを意識するような主観は、その有限性を有限性として意識させる無限者(他者)なしにはありえない、ということを意味しています。( 209 頁)
なるほどね。
きのうの印象のまんまだ。
たぶん、このへんがいちばん誤解されるところなんだよな。
デカルトの「コギト」は、思惟主体・思考の主体であるかのように一般には考えられていますが、スピノザはそうは考えませんでした。スピノザは、「コギト・エルゴ・スム」は三段論法による証明ではなくて、「私は思惟しつつ存在することである」といっています。この読み方だけでも、スピノザのデカルト読解がいかに優れているかがわかると思います。( 209 頁)
しかし、スピノザについてのこの講演、スピノザと同じくらいデカルトについてもふれられてる。
なんていうか、ボクもほんとうはスピノザとキルケゴールを読みたいんだ。
だけど、それにはその前にデカルトとヘーゲルをちゃんと読まないとという気持ちがあって、いまデカルトを読んでる。
そしたら、あまりにも面白くて。
競馬予想 TV を見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/12 fri
『デカルト選集 第二巻』(創元社)所収「哲學の原理」佐藤信衛譯。
また、感覺を持つのは人間の特長だけれども、これは外からの印象によつて起るもので、それはつまり依存の徴にほかならないから、これも~は持たない。ただ~は思ひ且つ望む。それも私たちのやうに別々にするのではなくて、いつも一つの極く單純なはたらきで思ひもし望みもしすべてをつくりもする。現に存在するもののすべてをである。( 28 頁)
なんか、デカルトの神の存在についての証明を読むたびに、デカルトの神はいらないって感じがする。
それは、ただ「原理」でありさえすればいいんだから。
というか、あるしかないもんなんだから。
『朝顔』レミオロメン
聴かずぎらいだったけど、思ってたよりいい。
でも、やっぱり声はちょっと。
『ダイアローグ 5 』柄谷行人(第三文明社)所収「「マルクス」への転向」、読了。
糸圭 秀実との対談。
柄谷 もともと僕は権威というものを感じないので、反権威主義なんてありません。教師に反抗するというのもわからない。反文壇とかいうのも理解できない。ただ、いいものはいいと思っているだけで、それに対してはまったく謙虚なつもりです。それを傍若無人と言うのなら、否定はしませんがね。( 287 頁)
謙虚で傍若無人かあ。
やっぱり、稀有な人だよな。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/11 thu
『デカルト選集 第二巻』(創元社)所収「哲學の原理」佐藤信衛譯。
たいていの論爭に認められる謬は互に強く反對しようとすればするほど兩者とも眞理から隔たるといふことです。眞理は各の意見の中間にあるからです。( 9 頁)
「中間」という言葉を、なにか折衷であるとか妥協であるとかいうふうに取ってはならない。
「対立」という罠から出ること。
それがデカルトの「方法」である。
そのために、すべてを疑うために見いだされたのが「コギト」だ。
それは、本来は「超越論的」な視点でははない。
ただ、疑うという運動が止まった瞬間に、「超越論的」になってしまうというだけだ。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/10 wed
『デカルト選集 第一巻』(創元社)所収「書簡集(一)」佐藤正彰 川口篤 渡辺一夫譯、読了。
同書、読了。
換言すれば、我々の意志が決定される以前には意志は常に自由であり、即ち、二つの反對物のいづれかを選擇出來るというふ力を持って居りますが、必ずしも無差別ではないのであります。むしろ逆に、我々は、如何なる決心を採るべきか判らぬやうな状態から、或はさうした状態に陥らぬやうにする為に、さうした状態から脱れ出ることをのみ努めて考へるのであります。( 215 頁)
メルセンヌ宛ての 1641 年 5 月 27 日 ? 付けの書簡より。
この手紙、重要なことが書いてあるように思うんだけど、薄皮が一枚かぶさってるみたいに感じられて、つかみどころがない。
ボクの認識力の限界。
とりあえず、あとにまわそう。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/09 tue
犬と暮らしたいなあ。
『デカルト選集 第一巻』(創元社)所収「情念論」伊吹武彦譯、読了。
卑屈すなはち誤れる謙遜は如何といふに、これは主として、人が己を弱きもの決斷なきものと感じ、恰も自由意志を十分活用し得ないかのやうに、或る事をすれば後悔するとわかつてゐながらしかもせずにはゐられない、といふことに存してゐる。( 155 頁)
なるほど。
でも、自由意志に対する自信は、決定論的なものを受け入れることからはじまるんだよな。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/08 mon
『デカルト選集 第一巻』(創元社)所収「情念論」伊吹武彦譯。
從つて攝理はいはば不動の宿命あるひは必然であつて、我々はこれを偶然と對立せしめ、偶然は我々の悟性の誤から生じた幻として破棄すべきものである。( 148 頁)
決定論をまずは受け入れないと、どうしようもない。
テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
03/07 sun
馬券は買わず。
ことしは総額できょねんの 1 割ぶんくらいしか馬券を買わないかも。
そんなのつまんないけど、買いたくならないんだからしょうがない。
でも、馬券人生をこのまま勝ち逃げで終わろうなんてぜんぜん思ってないのは確かなこと。
『モオツァルト・無常という事』小林秀雄(新潮文庫)所収「西行」、読了。
自然は、彼に質問し、謎をかけ、彼を苦しめ、いよいよ彼を孤独にしただけではあるまいか。彼の見たものは寧ろ常に自然の形をした歴史というものであった。( 81 頁)
だけど、歴史の衣を着ない自然というものがあるんだろうか。
『ダイアローグ 5 』柄谷行人(第三文明社)所収「文学の志」、読了。
後藤明生との対談。
柄谷 ある意味で現在は、僕らが四苦八苦して言ってきたことがいわばオーソライズされて、平気で物が言えるようになったところがあるでしょう。しかし、それは「原理的」ということとは違いますね。もっともらしいことを誰もが言うようになっただけです。そういう状態は……。
後藤 さっきは、それを不幸だと言ったわけだね。( 261 頁)
小林秀雄はもとより、江藤淳ですら、今の批評家とくらべると、ずいぶん優秀に見える。
なんて書いておいて、さいきんの批評家のなんて、まったく読んでないんだけど。
ビール 2 リットルと睡眠薬。
03/06 sat
馬券は買わず。
『ダイアローグ 5 』柄谷行人(第三文明社)所収「現代文学をたたかう」「中上健次・時代と文学」「友愛論
夏目漱石・中勘助・中上健次、読了。
それぞれ、高橋源一郎・川村二郎・富岡多恵子との対談。
高橋源一郎の語りは、刺激的ではあっても、どことなくナルシシスティックだ。
それとは遠いところにあるように見えながら。
柄谷 そうやって語っているわけですよ、自分は特別扱いされていたと。厭味な文章ですよ。その厭味は単に漱石に対する厭味じゃなくて……。
富岡 中勘助という人の厭味がよく出てます。
柄谷 あの厭味はナルシシズムですよ。『銀の匙』もそうだけどもね。( 227 頁)
中勘助は不快だ。
競馬予想 TV を見ながらビール 1.5 リットルと睡眠薬。
03/05 fri
『デカルト選集 第一巻』(創元社)所収「方法敍説」落合太郎譯、読了。
いさゝかでも疑はしいところがあると思われるものはすべて絶對的に虚僞なものとしてこれを斥けてゆき、かくて結局において疑ふべからざるものが私の確信のうちには殘らぬであらうか、これを見とゞけることが必要だと私は考へた。( 25 頁)
最後に、私どもが目ざめてゐて持つ思想とすべて同じものが、眠ってゐるときにも現われる。かゝる場合にそのいづれのものが眞であるとも分からぬものである。この事を考へると、かつて私の心のうちにはひつて來た一切のものは夢に見る幻とひとしく眞ではないと假定しようと決心した。( 26 頁)
絶対的な懐疑。
以下に引用する文を読めばわかるように、コギトとはこうした懐疑を持続させるためにこそ見い出されたものである。
けれどもさう決心するや否や、私がそのやうに一切を虚僞であると考へようと欲するかぎり、そのやうに考へてゐる「私」は必然的に何ものかでなければならぬことに氣づいた。( 26 頁)
コギトの明証性を前提としてデカルトがものを考えただなんて、のんきなものの見方だ。
解説書や哲学史から無用な先入観をもたされた、かわいそうな人の考えだ。
デカルトは、考え( = 疑い)つづけることをもとめて、コギトを仮定した人である。
《
考へようと欲するかぎり、そのやうに考へてゐる「私」は必然的に何ものかでなければならぬ》のだ。
さうして、自分は眞理を語つてゐるのだと私を保證するところの、「私は考へる、それ故に私は有る」といふ命題のうちには、考えるためには存在しなければならぬことを私はきはめて明白に見る、というふこと以外には何ものも無いことを認めたので、私どもがきはめて明白に、きはめて判然と、概念するものはすべて眞だといふことを一般的規則とすることができると考へた。( 27 頁)
二度引きになるが、デカルトは《「私は考へる、それ故に私は有る」といふ命題のうちには、
考えるためには存在しなければならぬことを私はきはめて明白に見る、
というふこと以外には何ものも無いことを認めたので》あって、素直に読めばコギトに価値を見いだすために考えたのではないことはあきらかだ。
『方法の話』という、この本の題名についてもういちど考えてみれば、それはさらに明白になるだろう。
それにしても、あらためてこの本を読んでみて思ったのは、「常識について」における小林秀雄のこの本の読解の正確さだ。
あきれるくらいにつかんでる。
『ダイアローグ 5 』柄谷行人(第三文明社)所収「路地の消失と流亡」「死について」、読了。
前者は中上健次との、後者は日野啓三との対談。
柄谷 シュレーゲルが言ってるんだけど、イロニーの最終形態は真面目になることだ、と(笑)。だから素直にやろう。
中上 僕もそうです。素直に。
柄谷 素直ということにはやっぱり迅速な知性の運動が要る。
中上 そう、これはものすごい自信が要る。( 71 頁)
「迅速な知性の運動」と「自信」かあ。
浅田さんがあんなに素直に見える理由がよくわかる。
柄谷 今日は、日野さんからどんな遠慮もいらないと言われているので、早速、ガンの手術を受けられたということから始めたいと思います。( 71 頁)
ぶひゃひゃひゃひゃ。
ほんとに遠慮しないのな。
でも、柄谷さんもお父さんをガンで亡くされてるものね。
ビール 2 リットルと睡眠薬。
03/04 thu
『隠喩としての建築』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「核時代の不条理」「小島信夫論」「内輪の会」「言語という謎 丸山圭三郎『ソシュールの思想』」「伝達ゲームとしての思想」「建築への意志 『言語にとって美とはなにか』を読む」、読了。
もしあるテクストが意味生産的だとすれば、「主体的活動」によってそうなのではなく、テクストを一つの「構成された構造」として確定するとき、まさにそのかぎりでそれに矛盾する構造が不可避的に出てこざるをえないという「決定不可能性」をテクストがもっているからである。( 223 頁)
テクストの多様性というものは、ほとんど苦痛のようにして存在する。
『ダイアローグ 5 』柄谷行人(第三文明社)所収「「歴史の完結」とその脱構築
マルクスの時代とわれわれの時代」「畏怖あるいは倫理の普遍性」、読了。
前者は小林敏明との、後者は大西巨人との対談。
大西 しかし、何となく茫漠たる思いに誘われることがありますよ。たとえば、『地獄変相奏鳴曲』という本を出したでしょう、あれはおととしかな。そうすると『ノルウェイの森』が二百万部、こっちは長い間かかって書いたが、何千部……これは話にならんな、茫漠……。( 40 頁)
『地獄変相奏鳴曲』は読んでないけど、 100 年後に『神聖喜劇』と『ノルウェイの森』のどっちが読まれてるかっていったら答えはもう決まってるわけで。
いや、そんなに見通しは明るくないのかな。
『ノルウェイの森』のほうが読まれてたりして。
柄谷 ですから、ほんとうは個人の問題、ほんとうに少数の人間の問題だと思っているんですよ。( 40 頁)
ビール 1.5 リットルと睡眠薬。
03/03 wed
さいきんは毎晩のように姪っ子と室内でサッカーをしてる。
教えられているという意識を持たせることなく密かにいろんな技術をおしえていくというのは、むずかしくて、たのしくて、つかれる。
『隠喩としての建築』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「検閲と近代・日本・文学――
柳田国男にふれて」、読了。
いいかえれば、柳田の視点からいえば、近代日本の国家権力と占領軍当局は等価なのであり、本質的には前者への批判こそ彼の「民俗学」の源泉なのである。( 188 頁)
《
小さな「氏神と氏子」のレベルでの「固有信仰」》は、占領軍によってではなく、すでに明治政府によって「空洞化」させられてしまっている。
その「すでに失はれたものを惜しむの情」が柳田の「民俗学」の出発点のひとつなのである。
ただ、柳田が拠って立っていた "自然性" に折口は疑問を持つ。
つまり、よく知られているように、柳田は折口を直感的で資料的実証性を欠くという理由で批判したが、本当はそうではあるまい。折口信夫は、柳田のいう「固有信仰」や「自然村」の歴史性を意識しており、したがって文献的にその背後に遡行しようとしたのであるが、柳田はそのかぎりで彼を批判し、他方で彼自身にとって "自然" であるものを主張するとき、『海上の道』のように "実証的" などとはほどとおいものを平然と書いているのである。( 189 頁)
『言語と悲劇』柄谷行人(第三文明社)所収「世界宗教について」、読了。
ここで念のため注意しておきますが、ナルシシズムとエゴイズムは違います。ナルシシズムは、しばしばエゴイズムを超えたものとして現われます。理想のために死ぬとかいったぐあいにですね。共同体の宗教は、そのようなナルシシズムとして、エゴイズムを否定するのです。( 186 頁)
子供がナスシシスティックな人間になることは、ひじょうに恐ろしい。
しかし、世の中の親が全員そう思っているわけでもないことは、なお恐ろしい。
ビール 2.5 リットルと睡眠薬。
03/02 tue
『 LICKS&ROCKS 』 TRICERATOPS
抜けたなあ。
好きだ。
『隠喩としての建築』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「形式化の諸問題」「鏡と写真装置」、読了。
すなわち第二項は「第一項 / 第二項」の対立に属すると同時に、第一項において不可避的に生じる「不両立関係」(パラドックス)を回避するために見出されるメタレベルであり、そしてこの上下(クラスとメンバー)の混同を禁止するところに、いわば「形而上学」がある。( 143 頁)
これは、たとえば{(現象 / 実在)実在}というふうに表記できる。
つまり、「現象 / 実在」という対立が、じつはメタレベルにある「実在」によって支えられているということである。
これを逆転して、{(実在 / 現象)現象}としたところで、問題を解決したことにはならない。
けっきょくは二項対立という安定した「形而上学」にとどまることになるからである。
重要なのはそのような "逆転" ではない。むしろわれわれが問うべきなのは、いかにして "逆転" が可能なのかということだ。( 143 頁)
それは二項対立という形式の整合性を追及することにより、逆にこの形式内に「決定不能性」を見いだすというゲーデル的問題においてだ。
『言語と悲劇』柄谷行人(第三文明社)所収「日本的「自然」について」」、読了。
他者を消去するというのは、けっして他者を認めないことではありません。むしろ、他者を自分と同質であり、対称的な関係にある、と考えることです。その場合、他者との対話は、自己自身との対話(モノローグ)と同じことになります。プラトン以来の弁証法はそういうものですね。そこでは、他者の他者性が消えてしまう。「他者」というときに、たとえば、犬ではなく猫を想像してみるとよいと思います。つまり、こちらにはまるで無関心な他者ですね。( 169 頁)
これ、猫を飼ったことがある人にしかわからないだろうなあ。
犬じゃなくて猫が「他者」のモデルに適してるってところが。
猫に似てる女性って、ほんとに魅力的だ。
テレビを見ながらビール 2.5 リットルと睡眠薬。
03/01 mon
『内省と遡行』柄谷行人(講談社)所収「付論 転回のための八章――
「探求」からの抄録」、読了。
同書、読了。
「社会的」とは、たんに「関係的」ということではない。むしろ、それは、交換( = 等置)という「行為」に存する、盲目的な跳躍を意味するのだ。「規則」によって、等置という行為の仕方が決定されるのではない。その逆である。等置という行為があったあとで、そのつど規則が見出されるにすぎない。( 277 頁)
「内省と遡行」や「言語・数・貨幣」を読んできたあとで「転回のための八章」と名づけられたこの「探求」からの抄録を読むと、著者が「跳んだ」という印象を受ける。
着地する場所はおろか、自分の立っているところがどこかさえ分からないまま、そんなことに頓着せずにおこなわれる暗闇のなかのでの跳躍がおこなわれたという印象を。
テレビを見ながらビール 2.5 リットルと睡眠薬。