メモ 2003 年 10 月

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10/31 fri

天皇賞(秋)の考察。



ビール 2 リットルと睡眠薬。

10/30 thu

『プラトン全集 1 』山本光雄編集(角川書店)所収「エウテュプロン」、読了。

ゆっくり行こうと思って。
それにしてもこれって、トンチ番長かよ。
したがって "見られるもの" であるというこのことによって見られるのではなくて、むしろ反対に見られるというこのことによって "見られるもの" であるわけだ。( 28 頁)
こういうとこは好きだけど。



ビール 3 リットルと睡眠薬。

10/29 wed

厳命を受けて本の整理。
とてもじゃないけど 1 日では終わらず。

おなじ本が何冊もなんさつもあるのにはまいった。
『純粋理性批判(上)』とか『枯木灘』とか、 4 冊ずつあるんだもの。
出先で読みたくなると、持ってる本でも買っちゃうからなあ。

とにかく、たくさん捨てた。



『ドストエフスキイの生活』小林秀雄(新潮文庫)所収「『カラマアゾフの兄弟』」、読了。
ただ、僕には、ドストエフスキイの思想にその核心という様なものがあるという事が容易に信じられないのであり、信じまいとすれば、イヴァンの劇詩は、ディアレクティシアンを捕らえる巧みに仕組まれた羂に見えて来るのである。( 251 頁)
「可能性の中心」
惚れるとはどういう事なのか誰も知らない。だが、それは確かに愛することではない、愛は人を救う筈だ。人は惚れて愛を見失う。( 255 頁)

ビール 3 リットルと睡眠薬。

10/28 thu

『ドストエフスキイの生活』小林秀雄(新潮文庫)所収「『カラマアゾフの兄弟』」
 上手に語れる経験なぞは、経験でもなんでもない。はっきりと語れる自己などは、自己でもなんでもない。( 222 頁)
ああ、小林秀雄だ。



ビール 3 リットルと睡眠薬。

10/27 mon

『 MITSUAKI IWAGO'S ANIMALS―地球の野生動物』岩合光昭(山と渓谷社)
病院の待合室で。
この世に野生動物に匹敵するくらい美しいものなんで、ほとんどないと思う。



とはいえ、たまには出会える。



『機動戦士ガンダム 2  哀・戦士」富野喜幸監督を見ながらビール 2.5 リットルと睡眠薬。

10/26 sun

馬券は 2 戦 1 勝で 3 万 6 千円のプラス。
ショボイけど、一足飛びってわけにもいかないもんね。



ビール 1.5 リットルで夕寝。



『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)所収「泥濘」「路上」、読了。
しかし自分は引返そうとも、立留って考えようともしなかった。危ぶみながら下りてゆく。( 75 頁)
梶井のこの切れが好きだ。



ビール 2 リットルと睡眠薬。

10/25 sat

近畿大学大阪コミュニティカレッジで浅田彰氏と柄谷行人氏の共同講義が特別公開されるということで、大阪へ。
12 時 20 分に梅田に到着。
食事をすませて、 13 時 30 分に大阪コミュニティカレッジへ。

今回は前から 2 番目の席に陣取った。
講義は面白く順調にすすみ、質問タイーム。
手をあげて質問を開始。

でも、あれ ?  あれ ?
あがりすぎて、なに訊いていいか分からんよーになってもた。
けっきょく、とんでもなくあやふやな質問に…。

   ||     ⊂⊃
   ||    ∧ ∧
   ||    (  ⌒ ヽ
 ∧||∧   ∪  ノ
(  ⌒ ヽ 彡  V
 ∪  ノ  フワーリ
  ∪∪

逝ってきます…



馬券は買わず。



『白痴』ドストエフスキー 木村浩訳(新潮文庫)
すると、ガーニャの顔は実際にものすごくゆがんできた。( 193 頁)
ボクの顔はゆがまなかったと思う。
たぶん。

10/24 fri

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)、読了
同様のことが「消費者としての労働者」の運動についていえる。消費者やボイコットの運動は以前から存在した。しかし、それが重要な意味を帯びるのは、資本の運動 (G-W-G') あるいはメタモルフォーシス(変態)を、価値形式における場所変換(トランスポジション)として見るときである。そのような理論的省察がないかぎり、消費者あるいは市民運動は、せいぜい、社会民主主義に収斂されざるをえない。( 432 頁)
ある種のエコロジー運動に対する苦々しい気持ちが、何からくるのか分かった。
それは、それが間違っているから腹立たしいんだ。



ビール 2 リットルと睡眠薬。

10/23 thu

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
すなわち、資本制生産は、その他の生産形態を解体するように見えるが、実際は、そうでなく、むしろそれを保存し活用しようとするのである。( 378 頁)
うちの会社なんか、まさに保存され活用される側だな。
そしてボクはそこのプロレタリアート。



ひと安心。



ビール 2 リットルと睡眠薬。

10/22 wed

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
あらためて強調するが、われわれはマルクスがいう「社会的」という言葉に注意しなければならない。それはゲマインシャフトではないが、ゲゼルシャフトでもない。なぜなら、ゲゼルシャフトは商品経済が確率したときに成立する、もう一つの共同体だからである。( 338 頁)
共同体と共同体との「間」としてあった場所も、交換がおこなわれ価値体系が形成されたときに、共同体となる。



ビール 2 リットルと睡眠薬。

10/21 tue

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
経済的ということを軽蔑してはならない。むしろ、資本、国家、ネーション、宗教はすべて交換という観点、すなわち「経済的」観点から見られなければならないのである。狭義の宗教を信じようと信じまいと、現実の資本主義はわれわれをたえずそれと類似した構造のなかにおくということである。われわれを動かしているのは理念ではなく、また、現実的な必要や欲求でもない、あえていえば、交換あるいは商品形態そのものに胚胎する形而上学であり神学なのだ。( 328 頁)
フロイトは「経済的」なものとして精神活動を考えた人である。
アメリカがドルの兌換制を停止した一九七〇年代に、「ポストモダン」というべき事態が各領域で始まったのである。そこでは、オリジナルそのものがコピーだということになる。だが、この状態が永続することはありえない。( 317 頁)
この一文はすごく重要だと思う。
「歴史の終焉 ? 」といったようなテーマでいまさら浅田さんや柄谷さんが講義するのは、あんまりおもしろいとは思えない。
「 end ( = 目的・終わり)」のない世界で相対的な差異と戯れるというようなイメージは、いまとなってはある種の人たちを元気づけるだけだと思うから。
もちろん、柄谷さんや浅田さん自身はそういったコジェーブ的な歴史観を否定しているのは分かってるんだけれども、「歴史の終焉」について話すなら、上に引用した文章のようなことをもっと話して欲しい。
というか、今週の講義で質問するつもり。



ビール 2 リットルと睡眠薬。

10/20 mon

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
要するに、事後的に見れば、商品は使用価値と交換価値の「総合」であるが、事前において、それは存在しない。それが実現するためには、他の商品(等価物)と交換されなければならないのだ。( 283 頁)
「命がけの飛躍〔 salto mortale 〕」



『畏怖する人間』柄谷行人(講談社文芸文庫)所収「発語と沈黙――吉本隆明における言語」、読了。
彼らはきっと裏切る、その証拠は戦前戦後にたっぷり見せてもらった、今度こそはと思うならなぜ沈黙できないのか、と吉本はいっているのだ。誰でも本気にそう思っているなら、「おれは生涯闘う」などといってはならぬ。それはできもしないことをいうな、という意味ではない。口に出してしまう心の弱さが問題なのであり、この弱さはただちに自己絶対化に陥るものだ。誓う(発語する)ということにおいて、ぼくらを強いている現実の相対的な存在条件をとびこえてしまうからである。( 156 頁)
吉本隆明のことで、柄谷さんにたてついてしまったことを思いだす。
もちろん、柄谷さんにとって吉本隆明が影響力を持っていたことをボクなりに分かってはいるんですよ。

ビール 2.5 リットルと睡眠薬。

10/19 sun

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
たとえば、キルケゴールは思弁は後ろ向きだが、倫理は前向きだと述べた。後ろ向きとは事後的であることであり、前向きとは事前的ということだ。彼にとって、イエスがキリストであることを知るのは、「イエスと呼ばれる人間が神である」という総合的判断を意味する。ヘーゲルにとって、イエスが神であることは以後キリスト教が拡大したという歴史的結果によって証明されるが、キルケゴールは「同時代的に」、つまり、事前においてそれを知ることができるかと問う。今ここで、みすぼらしい人間を神と見ることは「命がけの飛躍」としての信仰である。( 281 頁)
なんかドストエフスキーのような。



『白痴』ドストエフスキー 木村浩訳(新潮文庫)
いま自分はこのように存在し生きているのに、三分後にはもう何かあるものになる、つまり、誰かにか、何かにか、なるのだ、これはそもそもなぜだろう。この問題をできるだけ早く、できるだけはっきりと自分に説明したかったのです。( 110 頁)
「確実な」死。



競馬は 1 戦 1 敗で 2 万円のマイナス。



眼鏡のフレームがまっぷたつに割れた。



テレビを見ながらビール 2.5 リットルと睡眠薬。

10/18 sat

近畿大学大阪コミュニティカレッジで浅田彰氏の講義が特別無料公開されるということで、大阪へ。
12 時 20 分に梅田に到着。
食事をすませて、 13 時 40 分に大阪コミュニティカレッジへ。

募集期間が長かったためか、柄谷さんのときより聴講者が多い。
とくに女性が。

浅田さんは、思ってたより気さくな印象の人だった。
椅子をもてあそびながら講義する様子はどことなく少年のようで、それでいて指先の動きは優雅で、そしてよく通る声の持ち主だった。
講義は(たぶんわざと)徹底的に図式的に話してくださったので、とても分かりやすかった。

浅田さんがおっしゃったように、「柄谷はこんな奴なんだな。浅田はこんな奴なんだな。」っていうことを知ることだけも、こういう講義の意味はあると思う。

今回は質問タイムは教室でだけで、浅田さんは講義終了後すぐにお帰りになったみたい。
いちおう粘ろうかとも思ったけど、やめておいた。
来週の柄谷さんと浅田さんの共同講義のときには、講義終了後に質問タイムがあったら粘るつもりだけど。



馬券は買わず。



『白痴』ドストエフスキー 木村浩訳(新潮文庫)
ところが、死刑では、それがあれば十倍も楽に死ねるこの最後の希望を、確実に奪い去っているんですからねえ。そこには判決というものがあって、もう絶対にのがれられないというところに、むごたらしい苦しみのすべてがあるんです。( 40 頁)
小説って、やっぱりおもしろい。



テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。

10/17 fri

不調。


テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。

10/16 thu

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
 生産物や労働という実体をもってきて、資本制経済あるいは貨幣の幻想性を批判することはできない。なぜなら、そのような幻想が崩壊する恐慌において、人々が殺到するのは貨幣だからだ。( 224 頁)
そのとき、本質が露呈される。



『梶井基次郎全集 全一巻』(ちくま文庫)所収「檸檬」「城のある町にて」、読了。
主人公の義兄の娘がまだ赤ん坊だったころ、義兄の母につれられて川に行き、おぼれかけるという事件があった。
 それからのお祖母さんは目に見えてぼけて行って一年程経ってから死んだ。
 峻にはそのお祖母さんの運命がなにか残酷な気がした。( 45 頁)
そのとき主人公が感じていたのは、「世代」というもののもつ残酷さだ。
それは先にあげた文章のあとに、
その事件の以前であった。お祖母さんは勝子の名前を、その当時もう女学校へ上っていた筈の信子の名と、よく呼び違えた。( 45 頁)
とあることからも推測される。



テレビを見ながらビール 2.5 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 4 杯と睡眠薬。

10/15 wed

おとといぶっ壊した会社のパソコンの復旧。
フロッピドライブを外したらなぜか起動画面が出るようになったんで、そのすきに速攻でフロッピドライブをつなぎなおしてブート開始。
無事に Windows 2000 professional のインストール終了〜。

と思いきや、いろんなドライバがインストールされてない。
IBM のサイトに行ってもドライバは見当たらんし、これはいったいどうしたものか。
悩みつつ 22 時に帰宅。



『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
ところで、われわれは単独性について語ることができない。なぜなら、言語はいつもそれを個別性 - 一般性の回路に引き戻してしまうからだ。( 153 頁)
このあとで、柄谷さんは「個別性 - 一般性の回路」の典型例としてヘーゲルを批判的に引用しているんだけれども、そのヘーゲルの文章が「間違っていない」ように見えるのはなぜなんだろうか。
たぶん、通らねばならない場所だからだ。



アルコール摂取せず。

10/14 tue

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
疑うこと、そして疑う主体性は、現実的に存在する差異、あるいは他者性から来るのである。そのような主体は、超越論的主体とは別のものである。( 136 頁)
超越論的主体における多我とは自我の投影でしかない。
「疑うこと」を強いるのはそういった多我ではなく、「他者の他者性」である。


テレビを見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。

10/13 mon

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
 カントは、われわれは物自体を思惟することはできるが直観できない、そして、この区別がないかぎり、アンチノミーに陥らざるをえないのだ、と述べた。( 130 頁)
これをカントにおける「はじまり」のようなものと捉えていいのかな。



会社の回線が B フレッツになったんで、ルータの買い出しと設置。
ついでに Windows Me が入ったパソコンに Windows 2000 professional をインストールしようとして失敗。
パソコンがうごかなくなる。
フロッピからも CD-ROM ドライブからもブートできない。
22 時ごろまでいろいろと試してみたけど上手くいかず。
とりあえず明日以降に再チャレンジすることにして、帰宅。



「マネーの虎」を見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
腕立て伏せ男には、笑いをとおりこして物悲しさを感じた。
あと、あの腕立て伏せが披露されたあとの吉田栄作の苦々しげな表情も物悲しかった。
こんな奴に共感しちまってたのか、ていうような表情が。

10/12 sun

途中で何度か警備員らしき人物にゆり起こされた。



はっきり目が覚めたのは午前 4 時。
かばんは寝てた植え込みから 1m くらいはなれた通路に落ちてた。
全部のファスナーが全開で。
なんで盗られなかったんだろう。
ロクなもんが入ってなさそうだったからかな。
いちおうお金も入ってたのに。

起き上がって、とりあえず近くの吉野家へ。
植え込みの枝で傷ついたみたいで体のあちこちが痛む。
牛丼の並を食って、バス乗り場の前にもどって、チケット販売開始の 6 時 50 分をひたすら待つ。
あたまが疲れてて、本も読めない。



ようやく 6 時 50 分。
ながかったー。
8 時発のチケットを買って、もういっぱい牛丼の並を食べて、バスに。



10 時 30 分に部屋に到着。
どうしてたのか訊かれたんで、野宿したといったらえらく怒られた。
大人はそんなことはしないらしい。
ということは、ボクも大人として認めてもらってるということか ?
それなら嬉しい。



馬券は買わず。



『ラーメン発見伝 二・三』久部緑朗作・河合単画を読みながらビール 2 リットルと睡眠薬。

10/11 sat

近畿大学大阪コミュニティカレッジで柄谷行人氏の講義が特別無料公開されるということで、大阪へ。
11 時 50 分に梅田に到着。
HEP FIVE をのぞいてから心斎橋へ。
BIG STEP の BEAMS がなくなって、 SHIPS になってた。

道に迷いつつ大阪コミュニティカレッジに到着。
講義開始の 1 時間前だったんで、教室にはボクひとり。
いやがおうにも高まる緊張感。
『トランスクリティーク』を読みながら待ってたんだけど、頭に入りゃしねえ。
字面を目で追ってるだけの状態なのに、なぜか頭ん中はすでにパンパン。
だんだん人も増えてきて、ようやく講義開始時刻に。
と思ったら、いつのまにか柄谷さんが教壇に !
うひゃー。

講義のテーマは「日本近代文学の終焉 2 」。
いままでの柄谷さんの仕事を総合的に見るような内容だった。

講義が終わって、質問タイムも終了。
ここで、柄谷さんから、
「 2 階にいるから、まだ質問がある人は来るように」
とのお言葉。
もちろん甘えさせていただきました。

ノックをして応接室へ。
柄谷先生は受講生らしき方たちと、すでに討論中。
緊張するー。
必死でタイミングをはかって、ふたつほど質問してみた。
でだしで声が裏返ったけど。

ここでの質問タイムもかなり長くなって、余裕をみてあったはずの帰りのバスの出発時間が刻一刻とせまる。
しかし、ここで帰ると一生こうかいしそう。
バスをあきらめることに。

ボクが乗るはずだったそのバスが梅田を出発したであろう 18 時 50 分ごろ、
「食事に行こう」
と柄谷先生。

えー !?
食事って ?
柄谷先生と ?
どこまでも着いていきます !
と思ったものの、無料参加のボクがついていっていいのかどうかかなり微妙な雰囲気。

でも、こっそりとまぎれこみましたとも。
柄谷先生を含めて総勢 8 名のなかに。

で、入ったお店は掘りごたつ式の居酒屋。
柄谷さんが奥にすわって、じょじょに席が埋まっていく。
けど、柄谷先生の横は空いたまま。
すわるか !?
すわるのか !?
と自分に問い掛けてるうちに、柄谷さんがあっさりと、
「ここに座れ」
と言ってくださいました。

うおー !
なんじゃそれー !

居酒屋でですよ ?
柄谷さんの隣りですよ ?
死んじゃうかと思うくらい感激しました。

んで、こんどはバンバン質問するために、生ビールを飲みまくって勢いをつける。
思い切って話しかけてからは、けっこうすらすらしゃべれるようになった。
勢いがつきすぎて、最後のほうは失礼な言動をしちゃったかもしれんくらいに。
酔っぱらって記憶があいまいなだけに、怖い。

夢のような時間だったなあ。
柄谷さんが隣りにいて、ビールを飲んでるんですよ。
んで、ボクが箸をつけたブリ照りを柄谷さんも食べたりするわけです。
あ、柄谷さん、ブリ照りは黒くて苦いとこが好きなのね、とか思ったりなんかしちゃって。



以下、柄谷さんと話したこと。

憲法第九条に対する柄谷さんの意見の変化と不変化について。
インターネットにおける著作権について。
柄谷さんが単行本として出版しようとしない文章の将来の扱いについて。
吉本隆明のこと。
安吾・柄谷と中上の肉体性の違いについて。
ボクの父親について(アホか)。

この後は記憶がない。
柄谷さんと受講生の方とボクの 3 人で駅まで歩いたことはおぼろげながらに覚えてるけど。
たぶん、恥ずかしい言動をいっぱいしたと思う。



それにしても、柄谷さんは素晴らしい人だと心から思った。
教育者としても本当に素晴らしい。


で、バス乗り場に行ってみたけど、最終バスは出たあと。
ちから尽きて、バス乗り場のちかくの植え込みに倒れこんで寝ちゃいました。

10/10 fri

実感。



テレビを見ながらビール 3 リットルと睡眠薬。

10/09 thu

『ヒューモアとしての唯物論』柄谷行人(筑摩書房)所収「『意味の変容』論」「日本植民地主義の起源」、読了。
同書読了。
いうまでもなく、北海道開拓は、たんに原野の開拓ではなく、抵抗する原住民(アイヌ)を殺戮・同化することによってなされたのである。( 293 頁)
子供のころ、『魔神の海』という本を読むたびに泣いたことを思いだす。



おお。



テレビを見ながらビール 3 リットルと睡眠薬。

10/08 wed

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
理性的であることは、他者との対話を前提すること自体なのである。( 103 頁)
しかし、共通の規則を持つような他者は内面化されるがゆえに他者ではない。
そのような他者との対話はけっきょくはモノローグである。



テレビを見ながらビール 3 リットルと睡眠薬。

10/07 tue

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
確かに、カントは他者の合意を前提していない。どれほど他者の合意があろうと、それは普遍的な命題(全称命題)を保証しないからだ。しかし、実は、カントは物自体によって、反証してくるような未来の他者を含意している。( 70 頁)
ここでいう物自体とは超越論的な他者のことである。



『畏怖する人間』柄谷行人(講談社文芸文庫)所収「心理を超えたものの影――小林秀雄と吉本隆明」、読了。

ビール 2.5 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 6 杯と睡眠薬。

10/06 mon

『トランスクリティーク――カントとマルクス』柄谷行人(批評空間)
フランス革命で、自由、平等、友愛というトリニティ(三位一体)が唱えられたように、資本、国家、ネーションは切り離せないものとして統合される。だから、近代国家は、資本制 = ネーション = ステート (capitalist-nation-state) と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再分配する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。( 33 頁)
「群像」連載時は読んでたんだけど、単行本になってからははじめて。

資本も国家もネーションも、それぞれ異なった交換原理に基づいている。
そのうちのどれかひとつを打倒しようとしても、この三位一体を崩すことはできない。
この認識は厳しい、そしてこの認識が指し示す道はもっと厳しい。



テレビを見ながらビール 2.0 リットルと睡眠薬。

10/05 sun

馬券は買わず。



『隠喩としての建築』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「隠喩としての建築」、読了。
理性的なものが根源的であるか、象徴的なものが根源的であるかという「問い」は、まさにレトリカルなものであって、答えられてはならないのだ。( 110 頁)
ペレルマンは現象 / 実在、総体 / 絶対、抽象的 / 具体的などに代表される二項対立を「概念の分割」とし、「第一項 / 第二項」と呼ぶ。
このばあい、第二項は第一項に対して独立して前もって存在していたのではなく、「第一項の諸様相間に現われた不両立関係を除かんがため第一項内で行われた分割の産物」である。
この「第一項」と「第二項」をいかに転倒し逆転しようともレトリカルな二項対立の外部に出たことにはならない。



録画しといた競馬予想 TV を見ながらビール 2.5 リットルと睡眠薬。

10/04 sat

ビール 1 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 4 杯で昼寝。



馬券は買わず。



テレビ見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。

10/03 fri

『ダイアローグ 1987-1989   4 』柄谷行人(第三文明社)所収「昭和を超えて」、読了。
中上健次との対談。
柄谷  昭和一〇年のころにはっきりしたことは、マルクス主義が崩壊したことですね。ある種の抑圧がとれた。それは、それまで共産党という表象を通して保持されてきた、絶対的な他者性からの解放だ。その解放感というのが、いわば文芸復興だった。ここ数年、そういう解放感がある。ところが、ぼくはその解放感を否定するので、左翼ということになってきた。
中上  左翼も右翼も、いつでもひっくり返る。俺は極左だと、と言ってもいいんだよね。
柄谷  ただ、ぼくがあの "解放感" を否定するのは、やっぱり外部があり他者があるということを言いたいからだ。勝手に自分たちだけで自己イメージをつくりあげたって、通用しない。( 318 頁)
いまあるのは解放感なのかな、それとも閉塞感なのかな。
どちらにしろ、「外部」も「他者」もない。



ビール飲みながら競馬予想。
て、あかんやん。

ビール 2.5 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 6 杯と睡眠薬。

10/02 thu

『畏怖する人間』柄谷行人(講談社文芸文庫)所収「心理を超えたものの影――小林秀雄と吉本隆明」。
ここには自然の恩寵に対する根本的な信頼感がある。小林秀雄にとって、「心を虚しくして受容する」ならば、自然も紛れもなく自らを開示するのだからである。
 こういう「自然」はパスカルとは縁がない。なぜなら、パスカルにとって必要なのは、超越的な何かではなく、キリスト、すなわち二次元的な対立を和解させ恩寵を約束するキリストの観念だったからだ。逆にいえば、キリストという観念をとりさったとき、彼は不条理な怒れる神の意志のもとにさらされるかあるいは醜悪かつ悲惨な「自然」状態に直面するほかなかったのである。( 110 頁)
小林秀雄、あるいは吉本隆明にとってのような「自然」は漱石とも縁がない。
そして、たぶんボクとも。



『坂口安吾全集 16 』(ちくま文庫)所収「安吾愛妻物語」「誠実な実験者・マ元帥」「被告席の感情」「真説石川五右衛門『後編』に期待す」「或る選挙風景」、読了
性格と思想が同じものだということはウソである。相反する思想を所有することはできるが、相反する性格はそうはいかない。( 263 頁)
このあとで、安吾は性格の上に思想を置く。
しかし、文脈上、安吾のいう「思想」とはやはり「性格」と切り離せないものである。

ビール 2.5 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 6 杯と睡眠薬。

10/01 wed

『隠喩としての建築』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「隠喩としての建築」。
日常的なもの・正常なものは、ロジカル・タイピングを、すなわちクラスとメンバーの非連続性を維持するところに成り立っているということである。ここで制度の意味がはっきりする。それは言語的な文節の恣意性の禁止なのではなく、自己言及性がロジカル・タイピングを原理的に不可能にしているがゆえに、それを外的に、すなわち社会的に禁止するほかないからである。( 91 頁)
制度化された者と、されなかった者。
こういう二元論の不毛さを承知であえて問うとすれば、どちらが幸せなんだろうか。
苦しいのはもちろん後者だろうけれども。



『畏怖する人間』柄谷行人(講談社文芸文庫)所収「内側から見た生――漱石試論 (2) 」、読了。
船は自分をおきざりにして遠ざかっていき、自分は黒々と波打つ海に無限に落下していく。ここで「船」が漱石の≪母なるもの≫の象徴だとすれば、養子に出された彼の内面の陰惨な風景をあらわしている( 94 頁)
別に事実の共通性によって漱石と自分を同一視するわけではないけれども、ボクの内面も「陰惨な風景」とでも呼べるようなもんだと思う。
次のような認識にしたって、同じようなそれがボクにもある。
ルソーにとって社会は個体の外側にある。が、漱石にとって、≪社会≫とは≪意識≫であり、自己自身に余計な桎梏を課する意識そのものにほかならない。( 101 頁)
ビール 2.5 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 4 杯と睡眠薬。

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