09/30 tue
『隠喩としての建築』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「隠喩としての建築」。
逆説的なのは、「確実性」の探求と建築が、その不可能性を証明してしまうことだ。( 64 頁)
「外部」を想起してはならない。
『ダイアローグ
1987-1989 4 』柄谷行人(第三文明社)所収「昭和の終焉に」、読了。
浅田彰との対談。
浅田 一方に天皇制があるがゆえに、他方でこちらが、初期の江藤淳がそうであったように、近代的構築主義になってしまうんですね。ただ、それはやらざるをえないことで、愚直に反復すべきだと思うんです。( 262 頁)
徹底的に「近代的構築主義」であるためには、知識は第一前提だ。
と思うとき自分に絶望する。
『坂口安吾全集 16 』(ちくま文庫)所収「暗い哉東洋よ」「宮様は一級紳士」、読了
俗情が真理を否定して、その不合理に気付かないばかりでなく、俗情にそむいて真理をもとめ理につくことが冷酷で、人でなしの所業で、悪行であり、情につく方が善意の人の所業で善行である。そういう俗情が国論となったら怖ろしいことになるであろうが、しかし、実に国をあげて俗情につきたがるような、そういうキザシなきにしもあらずでしょう。( 202 頁)
ビール 2.5 リットル麦焼酎「いいちこ」の梅割り 6 杯と睡眠薬。
09/29 mon
病院の待合室でたまに見かける、完璧なバランスの顔と透明な存在感とそれらに見合ったファッションセンスの持ち主が「ゼクシィ」を読んでた。
『ダイアローグ
1970-1979 1 』柄谷行人(第三文明社)所収「文学・言語・制度」、読了。
蓮實重彦との対談。
蓮實 関係性はわかってないけれど、しかし「知」でそれを関係づけようとはしないときの大江健三郎というのは、妙に生なましいのですね。問題はむしろその生なましさであって、彼はむしろ、もののフェティシズムの人として輝くんじゃあないか。( 129 頁)
大江健三郎ってのも、すごいひとだよなぁ。
すげえヘンだものね。
『世紀末レッスン』糸圭 秀美(パロル舎)
糸圭さんはこういう本はもう出さないんだろうか。
すごくおもしろいんだけどな。
ところで、糸圭という表記は、正しい漢字がインターネット上で表示できないんで糸と圭を組み合わせてつくりました。
というか、
近畿大学国際人文科学研究所のサイトでの表記から借用しました。
この時期、インターネット上で表示できない漢字を姓に持つというのは運がいいんだろうかわるいんだろうか。
ビール 2.5 リットル麦焼酎「いいちこ」の梅割り 5 杯と睡眠薬。
09/28 sun
録画しておいた競馬予想 TV を見ながらビール 1.5 リットルと睡眠薬で昼寝。
『隠喩としての建築』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「隠喩としての建築」。
ソシュールがアナグラムの問題にこだわったのは、テクストが思考によって作られた「構造」以外の構造を不可避的にもってしまうという直観からだといってよい。( 42 頁)
アナグラムには興味がないけれども、ソシュールのアナグラム研究にはちょっと興味がある。
『ダイアローグ
1987-1989 4 』柄谷行人(第三文明社)所収「批評の零地点
磯田光一について」、読了。
秋山駿との対談。
いい対談。
ビール 2.5 リットル麦焼酎「いいちこ」の梅割り 5 杯と睡眠薬。
09/27 sat
『隠喩としての建築』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「隠喩としての建築」。
アイロニカルなことは、西洋思想史において、建築的たらんとすることが、むしろそれのみが、いつもその逆のものを露出してきたということである。( 20 頁)
ボクが徹底的なモダニストを尊敬するというのは、それが「建築的」たらんとすることを体現している在りかたであるという意味においてだ。
ビール 1.5 リットルと睡眠薬で朝寝。
馬券は買わず。
『坂口安吾全集 16 』(ちくま文庫)所収「衆生開眼」、読了
俗情が真理を否定して、その不合理に気付かないばかりでなく、俗情にそむいて真理をもとめ理につくことが冷酷で、人でなしの所業で、悪行であり、情につく方が善意の人の所業で善行である。そういう俗情が国論となったら怖ろしいことになるであろうが、しかし、実に国をあげて俗情につきたがるような、そういうキザシなきにしもあらずでしょう。( 202 頁)
オレは真理を知っているんだけれど敢えて俗情のほうについているんだよ、なんて思い込んでいる人が増えましたよ、安吾さん。
それが俗情ってことなのに、そうだとも気付かないのです。
ビール 2 リットルと睡眠薬。
09/26 fri
『マルクスその可能性の中心』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「文学について――漱石試論 2 」、読了。
同書読了。
『道草』が示すように、漱石はこの制度に翻弄されている。しかし、それは家族という制度が抑圧的だったということではなく、彼がふつうの子供のように、家族を "自然" として受けとれなかったということである。彼はある恣意性にさらされていた。つまり、養父母を実の両親として育ったこと。、そしてそれが両親と養父母との単純な動機や気まぐれによって支配されたということ、こうしたすべてが彼にとって「何となく欺かれた」感じを与えるのである。
( 205 頁)
ボクも「ある恣意性にさらされていた」。
そして「何となく欺かれた」ような感じがしていた。
親子の "自然さ" は、始原的なものでなく、派生的なイデオロギーである。それは根源的にとりかえ可能なものであり、そのためにこそ、未開社会へ行けば行くほど、より厳格な親族の「制度」が存在するのだ。動物の世界では、とりかえがとりかえとしてありえない。
漱石の生涯の「不安」は、このような「とりかえ」の根源性を察知せざるをえなかっとところからくるといってよい。彼には、アイデンティティはありえない。なぜなら、アイデンティティとは、制度の派生物を "自然" として受けとることにほかならないからである。犬は犬だ、私は私だ、私は誰々の子だ……こうしたアイデンティティは互いに共通している。それは、とりかえの禁止として在る制度が強いるものであり、さらに制度の結果に対して "自然" に適合することである。
( 207 頁)
ボクにもアイデンティティはありえないような気がする。
漱石と同じような「不安」がある。
『道草』の漱石は、しっかりと安定した親子関係をもたなかった「不幸」を嘆いているのではない。彼が例外なのではなく、正常な家庭こそそうした起源を隠蔽しているのではないかという視点が、この小説を不気味なものにしている。( 207 頁)
『坂口安吾全集 16 』(ちくま文庫)所収「人形の家」、読了
この夫が考えているような通念からみれば、接客業というものは最低以下の職業ですが女房をそういう最低以下の地位に落として稼がせるくらいなら、男の職業がない筈はありませんよ。女房にそういう仕事をさせても、自分の方は多少とも社会的地位のある職業でなければならんという考えが、かかる悲劇や家庭破壊の最大の要因をなしております。( 183 頁)
仕事なんて、なんでもよけりゃなんでもあるんだ。
ビール 3.5 リットルと睡眠薬。
09/25 thu
『マルクスその可能性の中心』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「階級について――漱石試論 1 」、読了。
すると、この船の「世界」が、三種類の階級に分けれらるばかりでなく、(中略)船の空間そのものが、フロイトの構想した心的世界に類似するだろう。むろん、こうしたアナロジーが可能なのは、もともとフロイトが心的世界を「世代」(父と子)間の階級闘争として把握したからである。したがって自我あるいは意識は、中間階級(ミドルクラス)(これを中間階級と呼ばないのは、中間性強調したいからだ)の意識であって、この階級は支配階級による禁止を逆に積極的に内面化する。
( 186 頁)
この中間階級の自己欺瞞は次のような形であらわれる。
葉子をとりまくインテリたちは、みな彼女を熱愛する。だが、つねに自己欺瞞的なやり方でそうするのであって、彼女に軽蔑されるほかない。彼らは葉子に性的に魅かれているのに、それを "精神的(プラトニック)なもの" と考え、さらに葉子を道徳的に拘束したり立ち直らせようとする。ところが、倉地や水夫室の人間は、葉子をたんに女として、性的な対象としてしかみない。彼らは、いわば「快感原則」(フロイト)あるいは「善悪の彼岸」(ニーチェ)にある。
( 185 頁)
『ダイアローグ
1970-1979 1 』柄谷行人(第三文明社)所収「 <共同主観性> と <価値形態論> の論理」「マルクスと漱石」、読了。
前者は廣松渉との、後者は蓮實重彦との対談。
それにしても廣松渉と蓮實重彦との、この圧倒的な違いはなんなんだろう。
たぶん、つぎのようなことだとは思うんだけど。
柄谷 たとえばマルクスについても、日本語で書くとき、ある動揺がある、不安定さがあるんですね。それで必ず後味が悪い。その後味の悪さってものが、よいほうに転化すれば、すごく面白いものになるんじゃないかと思うんです。ぼくは、蓮實さんの本にはそれがあると思いましたけどね。
蓮實 その後味の悪さってのを、自分で感じる人と感じない人と、いるわけですよ。
( 300 頁)
ビール 2.5 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 6 杯と睡眠薬。
09/24 wed
『マルクスその可能性の中心』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「マルクスその可能性の中心」、読了。
たとえば、マルクスが「商品 A の "価値" は B の使用価値によって意味される」というとき、すでにありもしない "価値" が文法的に出現している。だから、この表現は、それ自身において、すでに意味されるものとしての価値をあらかじめ前提してしまう。マルクスの価値形態論が真にヘーゲルの弁証法を解体するものであるためには、そこにたんに主語と述語の構えそのものを派生させる起源への問いを読まねばならない。( 144 頁)
それこそが「可能性の中心において読む」ということである。
たとえば、マルクスを知るには『資本論』を熟読すればよい。しかし、ひとは、史的唯物論とか弁証法的唯物論といった外在的なイデオロギーを通して、ただそれを確認するために『資本論』を読む。それでは読んだことにはならない。( 9 頁)
『坂口安吾と中上健次』柄谷行人(太田出版)所収「フォークナー・中上健次・大橋健三郎」「中上健次とフェミニズム」「安吾の可能性」、読了。
彼女によれば、中上のテクストには、何かの公理を支持しているように見えるとき、同時にそれを破壊する別のレヴェルが必ずある。これは性 / ジェンダー政治に関しても同じであるだけでなく、むしろそこにおいて直接的にあらわれる。たとえば、中上は「蛇」を男性化するやいなや、それを再び女性化し、究極的に、男性的でも女性的でもない polymorphous gender imaginary を生み出している。( 242 頁)
中上健次のテクストのあの息苦しさ空気の濃密さは、彼のテクストがどこまでも重層的であるからだろうか。
『マルクスその可能性の中心』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「歴史について――武田泰淳」、読了。
「書く」ことはたんに出来事を記録することではない。文字以前の社会では、出来事はたんに記憶されればよかった。それは彼らの記憶力がよかったからでも出来事がすくなかったからでもなく、出来事がたえず神話的構造に還元されてしまうからである。出来事が出来事として、もはや構造に吸収されないものとして生じたときに、はじめて "歴史" 的社会になる。だか、それは出来事そのものが異なるからではなく、それを経験する者において、構造的な分裂が意識されているからである。「書く」ことは出来事を記録するために生じたのではなく、書くことによってしかこの分裂を統合できない危機から生じたのだ。( 167 頁)
「価値の関係の体系が一瞬解体される」とき。
それこそが「危機」である。
ビール 2.5 リットル麦焼酎「いいちこ」の梅割り 6 杯と睡眠薬。
09/23 tue
『坂口安吾と中上健次』柄谷行人(太田出版)所収「中上的世界の創出」「三十歳、枯木灘へ」、読了。
反復は、ひとが子供として生まれ成人として子供を作るということ、共同体がそれによって存続しているこの過程そのものにある。反復は生の残酷な特性なのだ。そこから出る道があるだろうか。
むろん、中上健次はこの問いをつねに問うていた。( 226 頁)
自殺すら反復でしかない。
LAN ボードの取り付けとメモリの増設をしに義兄のマンションへ。
ラーメンを出前してもらって食したあとで作業開始。
うちのあまりものの LAN ボードをサクッと装着して、メモリの買い出しに。
PC133 CL3 128MB のメモリを 4480 円で購入。
「相性保証を価格の 1 割でお付けできますが ? 」との店員の問いにいりませんと答えて帰還、メモリを差すものの認識しねえ。
どう差しても認識しねえ。
しかたないので、自分のマシンで使うといってボクが引き取ることに。
けれども、義兄んちのパソコンもうちのパソコン 2 台もぜんぶ同じ Gateway 製、その時点ですでに望み薄。
あんのじょう、うちのパソコン 2 台でも認識しない。
たった 448 円(しかも人の金)をケチッたばっかりに 4480 円 + 消費税がドブに。
『マルクスその可能性の中心』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「マルクスその可能性の中心」
特殊人間的な受苦性とは一つの遅延化によってもたらされている。それを生物学的にいえば、たとえば人間が異常に長い幼年期をもたねばならないということである。フロイトは、まさにそこに、世代(親と子の関係)が制度(非自然)として生じるゆえんをみいだしたといえる。だから、彼は本能と衝動を区別している。衝動とは "欠如" からくるものであり、それはすでに表象であり、「意味するもの」なのである。意味作用の根源は、「衝動」にある。( 124 頁)
ここまで読めば、「衝動」が「表象・欲望・言語」を発生させるということは自明である。
ビール 2 リットル麦焼酎「いいちこ」の梅割 5 杯と睡眠薬。
09/22 mon
『マルクスその可能性の中心』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「マルクスその可能性の中心」
王(貨幣)は、超越論的なものであるがゆえに王(貨幣)であるかにみえるが、逆にその超越性は諸党派(諸商品)の差異(関係)の消去によって可能なのだ。「価値形態論」における難解な論点は、ボナパルトという一党派が王位につく秘密にすでに示されている。( 112 頁)
ボナパルトは、諸党派の "対立" を "止揚" したがゆえに王になったのではない。
"対立" とは、むしろ諸党派間の差異を同一化することから生じるのだと柄谷行人はいう。
意識するとは、言語化することだ。分割地農民の「欲望」はけっして言語化されないがゆえに、「意識」に、つまり政治的言説の場にあらわれるとき、倒錯したかたちであらわれるほかない。ボナパルトは、彼らにとって「代表するもの」ではなく、主人なのだ。( 114 頁)
貨幣は、我々にとって「欲望」を「代表するもの」ではなく、主人なのだ。
ビール 2 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 6 杯と睡眠薬。
09/21 sun
姪っ子の運動会。
馬券は 1 戦 1 敗で 2 万円のマイナス。
購入レース数も購入金額も、ぼちぼち増やしていかないと。
ビール 1.5 リットルと睡眠薬。
09/20 sat
『 M の法則 2004 −馬単・ 3 連複・ 3 連単完全対応編』今井雅宏(メタモル出版)、読了。
『坂口安吾全集 16 』(ちくま文庫)所収「精神病診断書」、読了
私は精神病の謎は永遠に解けないと思っていますよ。永遠に。というのは、つまり人間というものは恐らく永遠に、好むときに好む夢を見るような、自分の身体や精神のネジや合カギを持つことは不可能だろうという意味です。構造が分からなければネジも合カギも持てやしません。( 158 頁)
このエッセイにおいて安吾は色んな意味でフロイトに対して両価的であるようにみえる。
構造に対する意思の優越を主張してみたあとで、持続睡眠療法というまさに意志に対する構造の優越であるような体験を持ち出したりしているのが一例だ。
競馬予想 TV を見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
09/19 fri
『マルクスその可能性の中心』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「マルクスその可能性の中心」
恐慌とはなにか。それは、価値の関係の体系が一瞬解体されることだ。物の内在的価値がそのとき消えてしまう。いいかえれば、恐慌は、貨幣形態がおおいかくしていた価値形態――象形文字――を露呈させる。人々は商品をみすててしまう。商品とは商品形態にほかならないのであり、物ではないのだ。物が眼前にありながら、彼らはそれをつかむことができない。ある種の失語症の患者が物を物として知覚しえないように。( 85 頁)
恐慌において、物の内在的価値の(無)根拠が露呈される。
貨幣によって媒介され商品として存在させられていたそれぞれの商品が物となって現われるのである。
『坂口安吾と中上健次』柄谷行人(太田出版)所収「追悼・中上健次」「巨大な謎」「差異の産物」「被差別部落の『起源』」、読了。
『枯木灘』では、自然主義・私小説的なものと民俗学的なものが融合しており、そのどちらでもない。主人公秋幸は、一介の土方にすぎないにもかかわらず、秋幸は、土建業という資本主義的構造のなかにいる。だが、こうした水準は、他方に『化粧』のような自覚がないならば、達成されなかっただろう。つまり、自然主義的な現実と民俗学的な構造を接続 = 脱構築する手続き、あるいは「私小説」と「物語」と接続 = 脱構築する手続きがないならば。( 185 頁)
『熊野集』を読んだときの印象とその後の自分自身の体験をあわせて思うことは、土建業は資本主義的構造でありながら、また「日本的なもの」の典型のひとつでもあり、プレモダンな要素をたぶんにふくんでいるということだ。
『坂口安吾全集 16 』(ちくま文庫)所収「大岡越前守」、読了
市井の若者にとっては流行は第一の美であるのさ。老人どもは常に彼らの若かりし日の流行を追想して現実に対しては悪罵とクリゴトをのべ、しかし、健康なる若者は常に彼らのみの美や流行を一身に負うべく、人間の歴史ある限り、市井の若者とは常にそういうもんじゃね。アロハそのものが美であるか、ないか、そういうことと問題は別個じゃよ。( 127 頁)
それがどんなものであろうと、流行を追う若者は「健康」だ。
だからボクもそれを否定したりは(めったに)しない。
ただもちろん、その流行が「美」であるか、ないか、それは別の問題だ。
ビール 2 リットルと睡眠薬。
09/18 thu
ひどい二日酔い。
『坂口安吾と中上健次』柄谷行人(太田出版)所収「今ここへ」「物語のエイズ」「小説という闘争」「物語と歴史
――『貴種と転生』四方田犬彦」、読了。
「悔恨」とは、こうでありえたのにという思いである。それはすでにオリュウノオバや礼如さんの「同一性」のなかに回収できない出来事の一回性、どうしようもなくずれ違ってくる人物たちの差異性の意識である。( 150 頁)
「出来事の一回性」、これは「出来事の歴史性」と呼び替えてもよいだろう。
たとえば、「歴史」という「同一性」はそれをいつも解消しようとする。
死んだ子供は帰らない。
その絶対性の前で立ちつくすこと、悔恨。
ビデオで『ジャンヌ・ダルク』
殺されたのは姉であり自分ではなかった。
なぜあのとき自分が殺されて姉が助からなかったのか。
この映画もそういう「悔恨」から始まっている。
映画自体は、むずかしいテーマをいちおう破綻なく終わりにみちびいて無難に着地したなという感じ。
おもしろかったけど、リュック・ベンソンは好きじゃない。
ビデオを見終わったあと偶然にも NHK でジャンヌ・ダルクの番組をやってたのでそれも見る。
ビール 2 リットルと睡眠薬。
09/17 wed
『坂口安吾と中上健次』柄谷行人(太田出版)所収「安吾その可能性の中心」「懐かしい安吾」「安吾の『ふるさと』にて」「やめる理由
――日本文芸家協会退会の弁」「『十九歳の地図』書評」「中上健次論抄」「中上健次への手紙」、読了。
もともとあいまいであり、またそうであるほかないのに、あたかもそうでないかのようにいうのがいやらしいのだ。たとえば、さきごろ日本国家は、亡命してきた中国人を、中国政府のいうとおり、「政治難民」でなく「経済難民」だと決めつけて中国へ送還した。しかし、中国に政治と経済の区別があるのか。「経済難民」はいわば「政治難民」であり、特にこの中国人の場合は送還されれば政治犯として扱われることははっきりしている。ところが、日本では、政治と経済を区別して勝手に自己納得しているのである。( 104 頁)
「経済難民」と「政治難民」の区別というのは、日曜の朝なんかにやってるくだらない社会派番組なんかでもよく使われてたように思う。
ところで、亡命してきた外国人が山に逃げ込んだりすると、かならず山狩りが行われる。
そういうニュースを見るたび、いつも逃げている外国人のほうに感情移入してしまう。
お腹をすかして山の中を逃げまわるというのは、ものすごい恐怖だよ。
そういうことに何の感受性も抱かずに、じぶんたちの共同体を守るためになんの疑問のいだかずに山狩りをやってる消防団とかを見てると怒りがわいてしょうがない。
私は別に筒井氏がいうように、文学あるいは文学者は「悪」を許容すべきだという理由でこの挙に及んだわけではない。文学者であろうとどんな職業の者であろうと、人殺しと同席したくないと断言するような人は一般に不快である。眼の前にいたら、ただではすまないだろう。私はそのような人とこそ同席したくない。( 103 頁)
『火の鳥 復活・羽衣編』手塚治虫、読了。
ビール 2.0 リットルと黒糖焼酎「龍宮」 1 杯と芋焼酎「黒石岳」 2 杯と麦焼酎「いいちこ」の梅割り 4 杯と睡眠薬。
09/16 tue
『マルクスその可能性の中心』柄谷行人(講談社学術文庫)所収「マルクスその可能性の中心」
だが、ある商品の内在的価値なるものは、二つの相異なる価値関係のの体系を考えるときにのみ想定される。一つのシステムのなかでの商品の価値はたんにすなわち諸関係によって決定される相対的な価値であって、等価交換と不等価交換という区別は意味をもたない。だから、その内部での交換はなんの剰余価値も生まない。「一国の資本家階級は、総体としては自分で自分を搾取することはできない」とマルクスがいうのは、このことである。したがって、二つの異なったシステムが媒介されるときにのみ、不等価交換あるいは剰余価値がはじめて必然性をもって存在する。( 63 頁)
「二つの異なったシステム」を媒介する行為として、たとえばある土地とべつの土地における商品の価値の違いを利用して利潤を得る商人の行為をあげることができる。
「二つの異なったシステムが媒介される
ときにのみ」剰余価値が生まれるということこそ重要な認識である。
ドラマ「振り返れば奴がいる」の再放送を見ながらビール 2 リットルと睡眠薬。
09/15 mon
9 時 15 分にチェックアウトして倉敷美観地区へ。
今回の旅の目的は大原美術館。
その大原美術館の前まできてみると、女の子たちが何やら騒いでる。
見ると、掘割のむこうでテレビカメラでの撮影がおこなわれているもよう。
撮られているのは出川みたいな人。
出川に似てて若い女の子が「すごーい ! 」っていう芸人っつえば、ケツメイシのあいつかよ、ケッ。
とか思いつつ対岸へわたってみると、ほんものの出川でした。
しかも、ちかくで見てみると、固定観念とちがってかっこえーやん、出川。
思わずミーハーと化して写真を撮りまくるボク。
出川と三瓶と、あとはじめて見る女の子。
三人とも芸能人としてのオーラみたいなのものが感じられるのは、スーツ姿だからでしょうか。
そうやって写真を撮ってたら、ボクと同じような人たちの輪のすぐ外に、やたら声のでかいオッサンがふたりいました。
とにかく声がでかいの。
んで、ひとりは小野ヤスシ似。
もうひとりは…、加藤茶に似てる ?
っていうか、加藤茶と小野ヤスシやん !
あとで聞くところによると、なんかボクの写真の撮り方ってヘンに目立ってたらしく、そのせいか出川さんも女の子もカメラ目線をすこしくれました。
いやー、しかし、こうやって写真を見てるとあの女の子は可愛かったんだなぁ。
人気が出るといいな。
なんてことをやってるうちに時間が過ぎていったので、目的の大原美術館へ。
建物の外に展示されているロダンの「カレーの市民」にいきなり圧倒されました。
これはすごいっすよ、タモさん !
館内に入っても、名画がずらり。
でも、ロダンの彫刻以上の衝撃を与えてくれる作品となると、なかなか。
そんななかで、ボクの心をいちばんひきつけたのはロートレックの「マルト X 夫人の肖像 - ボルドー」。
なんどもなんども見にもどって、けっきょく 1 時間以上はあの絵の前にいたと思う。
棟方志功の特別展を見終わったときには、もう閉館まぎわ。
美術館を出て、倉敷の街をぶらぶらして、おみやげを買って、車に乗り込んで四国へ。
22 時に部屋にもどって、お風呂に入ってからビール 2 リットルと睡眠薬。
09/14 sun
明け方 5 時に目が覚める。
競馬予想。
競馬予想 TV をビデオで見なおしながら、ビール 2 リットルと睡眠薬で朝寝。
馬券は 1 戦 1 敗で 5 万円のマイナス。
16 時に岡山県に向かって出発。
22 時 15 分、倉敷のホテルにチェックイン。
ビール 1 リットルと睡眠薬。
09/13 sat
足の小指の爪がはがれた。
生爪を剥がれる痛みってのを実体験。
『フロイト著作集 4 』懸田克躬他訳(人文書院)、読了。
いったい、それを手放すことに多少ともつらい思いをしないようなプレゼントはプレゼントといえるであろうか!( 479 頁)
いえないのであるっ !
『マルクスその可能性の中心』柄谷行人(講談社学術文庫)所収、「マルクスその可能性の中心」
周知のように、マルクスは『資本論』の冒頭で、二つの相異なる商品が等価であるためには、なにか『共通の本質』がなければならない、そしてそれは商品に対象化された人間的労働だといっている。だが、それは貨幣をいいかえたものでしかないし、古典経済学をすこしもこえるものではない。彼は等価の秘密を諸商品の「同一性」に還元する。しかし、そのような同一性は貨幣によって出現するのだ。貨幣形態こそ、価値形態をおおいかくす。したがって、貨幣形態の起源を問うとき、マルクスは、もはや「等価」や「共通の本質」という考えを切りすてている。それらこそ、価値形態の隠蔽においてあらわれるのだからである。( 32 頁)
あるものとべつのものとのあいだに同一性をつくりだし、しかもそうなるやいなやその事実すら見失わせてしまう貨幣形態。
それは同一性 = 平等を保証するという意味で神という概念の根にあるものでもある。
古典経済学は、二つの異質な使用価値が等価たりうる根拠を、そこにふくまれた同質の人間的労働にもとめる。実は、これは貨幣形態を前提した発走であり、貨幣を各商品のなかに内在させることだ。つまり、貨幣の成立によってはじめて各商品は "共通の実体" をもつかのようにみえるのに、彼らは各商品はもともと "共通の実体" をもつものだと考えるのである。
ちょうどキリスト教の神が、ひとりひとりの人間と関係し、それによって彼らの同等性を証すのと同様である。だから、マルクスは、プルードンの、「貨幣はいらないが商品はほしいという社会主義」(「哲学の貧困」)を批判する。これは、ニーチェが、「神はいらないが商品はほしいという社会主義」を批判したのと軌を一にする。貨幣を否定すること、神を否定すること、それはまだ何ものでもない。それらは、貨幣を各商品に、神を各個人に内在させることにほかならない。また、自覚しようとしまいと、ひとはそうしているのだ。( 49 頁)
ここでマルクスとニーチェはパラレルなものとして読まれているかのように見える。
というより、むしろニーチェを通してマルクスを「読み直して( = 新しく読んで)」いるかのようである。
貨幣 = 神 = 文字 = 意識という連関の中で、マルクス・ニーチェ・ソシュール・フロイトたちの連関と非連関もまた見えてくる。
馬券は 1 戦 1 杯で 1 万円のマイナス。
競馬予想 TV でビール 2.5 リットル。
09/12 fri
『坂口安吾と中上健次』柄谷行人(太田出版)所収「安吾、理性の狂気」「安吾はわれわれの『ふるさと』である」「堕落について」、読了。
それは必ずしもアインシュタインに限定される問題ではない。ただ、西洋の科学史においてたぶんニュートンだけが拮抗しうるほどの巨人である彼が示した "愚行" のなかにこそ、その問題が典型的にあらわれている、ということができる。それは、一言でいえば、世界は合理的であるはずだという非合理的な信念である。そこに、西欧の科学、というよりも、そのような科学を生みだした西欧がある。( 55 頁)
そういう信念から生まれる認識こそが「進歩」を作り出す。
それはやはり畏敬すべきことだ。
「進歩主義者」とそしられらたとしても、中途半端な地点で合理性と折り合うよりはいい、
たとえフーコーのように「理性」を批判したとしても、なお彼の方法は徹底的に理性的なのである。( 58 頁)
『カラテ地獄変 牙 1 〜 3 』梶原一騎原作・中城健漫画(道出版)、読了。
これらでビール 1.5 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 4 杯。
09/11 thu
『フロイト著作集 4 』懸田克躬他訳(人文書院)
機知の快感は節約された抑制の消費から生まれ、滑稽の快感は節約された表象(給付)の消費からうまれ、ユーモアの快感は節約された感情の消費から生まれるもののように思われる。( 420 頁)
機知とユーモアに関してフロイトはそれを生みだす側に「個人的資質」が必要であるという。
なかでもユーモアについては「なにか魂の偉大さといったものがあると」し、「滑稽なものの諸種のうちもっとも満足感を与えるものである」としている。
自分自身における苦痛や不幸を、それが何ほどのものでもないかのように扱う( = 感情の節約)。
こういう行為を見たときボクらは賛嘆したり笑ったりする。
ユーモアの転移が証明するような自我の高揚――これを翻訳すれば、私はこれらの諸動機によって苦痛を感じさせられるよりもはるかに大きい(偉大である)のだ、ということになろう――は、彼が自分の現在の自我を子供のころの自我と比較することから得てくることができるであろう。( 419 頁)
滑稽と機知、そしてユーモアの違いについてもうひとつ重要な点がある。
それはそれらが産み出される場所の違いである。
ユーモアは滑稽と心の前意識に位置する点を共有している。ところが機知は、われわれが想定せねばならなかったように、無意識と前意識との妥協として形成されるのである。( 419 頁)
『ヒューモアとしての唯物論』柄谷行人(筑摩書房)所収「ライプニッツ症候群――吉本隆明と西田幾多郎」「柳田國男論」、読了。
『坂口安吾全集 16 』(ちくま文庫)所収「安吾人生案内
判官巷を往く」、読了。
どうも、日本人は、役人に向かないようだ。この役人が役人でない時は鬼畜の性を発揮する人間ではないのであろうが、ひとたび役人となると、威張りたがり、あげくに鬼畜性をふるって弱者をイジメたがる。軍人でも政治家でも、どうも特権をもたせるとガラリと変わる性癖があって、当分のうちは誰が役人になっても役人に特権のある限りダメだと覚悟をきめる必要があるらしいから、なさけない話である。( 114 頁)
『はだしのゲン』でも役人の横暴はひどいもんだったものね。
しかも、それが「当分のうち」のことじゃなくて、現在においてもけっきょくのところはそうなんだから。
ああ、でも、こんなふうに他人事として読むような気のゆるみがあるかぎり、ボクも特権を持つとダメになっちゃうな。
これらでビール 1.5 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 4 杯。
09/10 wed
眠かった 1 日。
ビール 2 リットルと睡眠薬。
09/09 tue
『ヒューモアとしての唯物論』柄谷行人(筑摩書房)所収「エクリチュールとナショナリズム」、読了。
言語は簡単に死ぬし、殺されるのだ。文字言語と、それが担う文明がいたるところで働いており、話しことばはたえずその影響を受けている。歴史言語学は、この結果のみを見て、そこから、言語が有機的であり、成長したり衰えたりするかのように考える。それは、たんに文明あるいは国家の成長や衰退の投影にすぎない。たとえば、ラテン語がフランス語に受け継がれたかのような考えは、文化=文明が受け継がれたということを言語に投射しているだけである。つまり、歴史的言語学では、文化=文明と、(音声)言語が同一視されている。つまり、そこでは、「外的な」ものの偶然的な所産が、あたかも「内的な」連続性であるかのように想定されている。( 59 頁)
そういう思考こそがナショナリズムを強化する。
柄谷行人のナショナリズムについての文章や講演録はたくさんあるけれども、この文章はとくに興味ぶかい。
次にこの文章を読む前にソシュールをきちんと読んどかないと。
しかし、ソシュールがいうような、生まれることも老いることも死ぬこともなく、たんに「在る」ようなラングとは何だろうか。それは、どんな言語であれ、現に言葉が話されているという事態そのものである。それ以外に、何の内容もない。どの言語が滅びようと、ラングは滅びない。ソシュールはぎりぎりのことをいっている。人間は全滅することはありうる。しかし、人間が人間であるかぎり、ラングはある。極言すれば、そういうことになる。( 66 頁)
『坂口安吾全集 16 』(ちくま文庫)所収「安吾人生案内
判官巷を往く」。
『 L ・ van ・ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 30 番・ 31 番 ・ 32 番』ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
これらでビール 2 リットルと睡眠薬。
09/08 mon
『坂口安吾全集 16 』(ちくま文庫)所収「月日の話」「新春・日本の空を飛ぶ」「わが工夫せるオジヤ」「戦後合格者」「人生三つの愉しみ」「 "能筆ジム" 」「悲しい新風」「日本の水を濁らすな」「小林さんと私のツキアイ」「フシギな女」、読了。
私は山口を異常性格とは見ないのである。山口の本質はオールマイティを失うまいとする不安と、自身のなさ、劣等感だという。(週刊朝日)しかし、それは万人にあることだろう。そして社交としての着物をかなぐりすてると、突然ヤケを起してケツをまくって居直る。それも万人にあることだ。山口の場合はそれがドギツクでているから異常性格の所以だというが、これまた事と次第によっては万人がやりかねないものを蔵していると私は思うのである。
文士である私は、そのようにしか考えられないのである。ザラにあるタイプの人間がいきなりかかることを行うのではないのである。そこに至る特殊な道程があったのだ。小説はそのような道程を書くことでもある。するとそこに現れるものは平凡人が特殊な事情によってそうなっただけで、異常性格というものは、殆どないという結論だ。私は精神病者であったゲーテやニイチェやドストエフスキーの作品ばかり読んだり引用したりしているのが、おかしいと思うのである。一番平凡人を書いた人、健全な平凡人の平凡でまた異常な所業を書いた人、チエホフをなぜ精読しないのだろう。本当の人間を書いた人はチエホフであろう。人間の平凡さをこれぐらい平易に描写した人はないが、見方を変えれば、あらゆる平凡人がみんなキチガイで異常性格だと彼は語っているようなものだ。チエホフは古今最高の人間通であろう。( 87 頁)
築地の中華料亭「八宝亭」四人殺害事件の犯人についての安吾の文章。
山口を宅間に替えても、ほとんどそのまま妥当すると思う。
あの事件について知識と言えるほどのものはないけれども、もしあの事件について知ろうとするならこういうような道しかありえないような気がする。
「時代性」みたいなものでくくることは、どれだけ深刻な自己認識をしているようでも「安心」にしかつながらないケースがほとんだと思う。
「特殊な道程」を知ることは、やっぱり重要だ。
ただ、ボクは宅間のそれを知ろうとするよりはチェーホフを精読するほうを選ぶけれども。
精神病のお医者ではフロイドだけは人間を知っていたね。( 88 頁)
ビール 2 リットルと睡眠薬。
09/07 sun
『ヒューモアとしての唯物論』柄谷行人(筑摩書房)所収「一つの精神、二つの十九世紀」、読了。
ポストモダニズムとは「大きな物語の終焉」(リオタール)だといわれている。だが、むろんそのことは歴史が文字どおり終わることを意味するのではない。歴史=物語の終焉、いいかえれば、終わり(目的)のもとに歴史を展望する「精神」の終わりなのだ。それは新しい歴史的段階がはじまることを意味するのではない。たとえば、いつからポストモダンであるのかなどと問うのは、まさにモダンな意識なのである。ポストモダンとは、いわば、フッサールがいった意味で≪超越論的≫な意識であって、一つのパースペクティヴ(主体)のもとに歴史を組織してしまう超越的な意識をカッコに入れることである。( 37 頁)
徹底的にモダンな人は好きだし尊敬もする。
ただ、「いつからポストモダンであるのかなどと問う」ような無自覚なモダニストには嫌悪感を覚える。
『はだしのゲン 10 〜 12 』中沢啓治(中公文庫)、読了。
『 L ・ van ・ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 30 番・ 31 番 ・ 32 番』ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
これらでビール 1 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 6 杯を飲んで昼寝。
馬券は買わず。
今日で夏競馬もおしまい。
来週からは気合を入れなおそう。
「スーパーロボット大戦α」を 5 時間ほどプレイ。
3 年ごしでクリアできそうな。
ネットサーヒンしながらビール 1.5 リットルと睡眠薬。
09/06 sat
馬券は買わず。
テレビドラマ「すいか」でビール 3 リットルと睡眠薬。
09/05 fri
『はだしのゲン 6 〜 9 』中沢啓治(中公文庫)、読了。
『 L ・ van ・ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 30 番・ 31 番 ・ 32 番』ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
『頭文字 D 24 ・ 25 』しげの秀一
ビール 2.5 リットルと睡眠薬。
09/04 thu
会社の新しいパソコンのセッティング。
Pen4 の 2.8GHz にメモリ 1GB という、ボクからするとうらやましくなるスペック。
でも、 ISDN 回線が(ボトル)ネックになって、その速さを実感する機会はほとんどなし。
Windows Update だけでも 5 時間くらいかかったっちゅーの。
だから B フレッツが開通してからセッティングしましょうって言ったのに。
にんげん、速いものに慣れると後戻りはできませんな。
ところで、そのパソコンからうちのサイトを見てみて気付いたことがひとつ。
XP で 1024 × 768 の画面設定にしてると、トップページの下のほうでたまに更新してる駄文が画面に入ってないのね。
ぜんぜん読んでもらえてなかったりして。
『ヒューモアとしての唯物論』柄谷行人(筑摩書房)所収「交通空間についてのノート」、読了。
たとえば、原始社会は、われわれが知る未開社会とは違っている。現存する未開社会が構造的に安定した均衡社会であるのに対して、「原都市」は根本的に不均衡であり過剰であり非方向的に開かれているからだ。( 30 頁)
文化人類学とは「未開社会」(閉じられた構造)を説明するためのもの。
ビール 2.5 リットルと睡眠薬。
09/03 wed
『坂口安吾全集 14 』(ちくま文庫)所収「肉体自体が思考する」「風俗時評」「続堕落論」「風俗時評」「エゴイズム小論」、読了。
同書、読了。
親切にしてやったのに裏切られたからもう親切はやらぬという。そんな親切は始めからやらぬことだ。親切には裏切りも報酬もない。( 601 頁)
そうだ、そうだ。
『フロイト著作集 4 』懸田克躬他訳(人文書院)
『ヒューモアとしての唯物論』柄谷行人(筑摩書房)所収「個体の地位」、読了。
たとえば、ここに「くろ」という名の猫がいる。特殊性という軸でみれば、「この猫」は、猫という一般的な類のなかの一つであり、さまざまな特性の束(黒い、耳が長い、痩せている、など)によって限定されるであろう。しかし、単独性という軸でみれば、「この猫」は、「他ならぬこの猫」であり、どんな猫とも替えられないものである。それは、他の猫と特に違った何かをもっているからではない。ただ、それは私が愛している猫だからである。( 14 頁)
ナルシストというのは特殊性でしか他人を愛せないんだろうな。
『 W ・ A ・ モーツァルト ピアノ・ソナタ 15 番・ 16 番・ 17 番・ 18 番 幻想曲』グレン・グールド(ピアノ)
これらでビール 1 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 8 杯と睡眠薬。
09/02 tue
『フロイト著作集 4 』懸田克躬他訳(人文書院)
われわれの生活を保障する治療術がもたらされないかぎり、われわれの生活をより楽しいものにすべく社会的諸制度がもっと力をつくしてくれないかぎり、道徳の要求にたいして反抗するわれわれの内なる声は抑えられない。誠実な人間ならだれしも少なくとも心の中では結局このことを認めるであろう。この葛藤に決着をつけることは、新しい洞察の迂路をへてのみはじめて可能となる。人は自分の生涯を縮めることもあえてできるほどに他人の生活と結びつき、それほどに緊密に他と同一化できるのでなければならない。そして自分の諸要求を不正に満足させるべきではなく、それは満たされぬままにしておくのでなければならない。なぜなら、この満たされない多くの諸要求の存続こそが、社会秩序のための力を発展させることができるからである。( 321 頁)
「道徳の要求にたいして反抗するわれわれの内なる声は抑えられない」ことを認めようとしないような種類の「誠実な人間」もたくさんいるけれども。
自分の欲望を見つめるのはつらい作業だ。
それをやり尽くして欲動理論を生みだしたフロイトはすごいよ、やっぱり。
『坂口安吾全集 14 』(ちくま文庫)所収「堕落論」「天皇小論」「文芸時評」「通俗作家 荷風」「欲望について」「蟹の泡」、読了。
もし人間が自我に就て考えるなら、自我の欲望と社会の規約束縛の摩擦や矛盾に就て、考えるという生活が先ず第一にそこから始まるのは自然ではないか。( 540 頁)
欲望は秩序のために犠牲にせざるを得ないものではあるけれども、欲望を欲することは悪徳ではなく、我々の秩序が欲望の満足に近づくことは決して堕落ではない。( 543 頁)
上で引用したフロイトとほとんど同じことを言ってる。
安吾も自分の欲望を見つめつくした人だものね。
『 W ・ A ・ モーツァルト ピアノ・ソナタ 15 番・ 16 番・ 17 番・ 18 番 幻想曲』グレン・グールド(ピアノ)
『坂口安吾全集 14 』(ちくま文庫)所収「デカダン文学論」「足のない男と首のない男」「風俗時評」「肉体自体が思考する」「風俗時評」、読了。
別な女に、別な男に、いつ愛情がうつるかも知れぬという事のなかには人間自体の発育があり、その関係は元来健康な筈なのである。然しなるべく永遠であろうとすることも同じように健康だ。( 561 頁)
シニシズムから安吾を理解しようとすると誤るだろう。
しかしもちろん彼はいわゆるオプティミストでもない。
『 W ・ A ・ モーツァルト ピアノ・ソナタ 15 番・ 16 番・ 17 番・ 18 番 幻想曲』グレン・グールド(ピアノ)
これらでビール 1 リットルと麦焼酎「いいちこ」の梅割り 6 杯と睡眠薬。
09/01 mon
『坂口安吾全集 14 』(ちくま文庫)所収「文学と国民生活」「巻頭随筆」「あきらめアネゴ」「歴史と現実」「予告殺人事件」「咢堂小論」「地方文化の確立について」「処女作前後の思い出」、読了。
農村の排他性は私はむしろ悪徳であると考えている。彼等は「だまされた」というけれども、彼等が人を信頼することを知らないところに病根があるのだと考えている。彼等は自分以外の人々はもっと悪質だと想像して、実は他の誰よりも悪質なことをする。彼等はその言訳に他の連中はもっと悪い事をしているのだときめこんでおり、自分の悪質さをてんで自覚しておらぬのだ。( 498 頁)
たしかに「農村」は決定的にそうだけれども、べつにそれは「公務員」や「会社員」におきかえてもかまわない。
じじつ、安吾はべつのところで「学校教師」を同じような形で攻撃してるわけだし。
ようは共同体の中で思考しているとそうなりやすいというだけのことだ。
しかし、下のようなことが本当にあったんだからやりきれない。
幼かったボクと母もそういう目にあった。
農村の諸方に現われる類型的な民事裁判の例、証文なしで借りておいてその親友を裏切ったり、畑の垣根を少しずつずらしたり、彼らは如何に親友や隣人を裏切っているか。彼等は人を信頼しないが、彼等自身が同様に信頼すべからざる性質をもち、自分の悪さを自覚せず、他の美しさを知らないだけに始末が悪い。( 498 頁)
『 W ・ A ・ モーツァルト ピアノ・ソナタ 15 番・ 16 番・ 17 番・ 18 番 幻想曲』グレン・グールド(ピアノ)
スカパーの日本映画専門チャンネルで『用心棒』。
何回みても笑える。
このころの黒澤作品は、とくに迷いがなくていい。
三船敏郎ももちろん迷わないし。
そういや、映画で最高に笑ったシーンって『椿三十郎』のラストの対決の場面。
あれ、ほんとに大爆笑したな。
やりすぎだよ、って。
ビール 2.5 リットルと睡眠薬。