『エティカ』 スピノザ

エティカ『エティカ』スピノザ 著 工藤喜作 斉藤博 訳(中公クラシックス)、読了。

 定理四八 精神のうちには、絶対的な意思あるいは自由な意思は存在しない。むしろ精神は、このこと、あのことを意欲するように原因によって決定され、この原因も他の原因によって決定され、さらにその原因も他の原因によって決定される。そしてこのように無限に進む。( 158 頁)

一般に、自分の意欲や衝動が他者によって妨げられずそれを実行に移せる状態を、人は自由とみなす。しかし、スピノザはその考えを否定する。あまつさえ、そのような状態をこそ “隷従” と呼ぶ。なぜなら、個人の意欲や欲望はすでに外的な原因によって決定されたものだからだ。そして、その外的な原因もまた、他の原因によって決定されている。この因果は無際限に続くため、人間がその全貌を知ることは不可能である。外的な原因によって動かされ、しかもその原因を理解していない者が自由であるはずがない。

では人間にとって自由とは何なのか。認識することであるとスピノザは言う。我々は無際限に続く外的原因をたどることはできないが、それが自然の永遠な法則や規則に従って生じているということを認識することはできる。

(…) すなわち、心の強い人は、あらゆるものが神の本性の必然性から導きだされることにとくに注意する。そのために、彼が不快で、しかも邪悪であると認識するもの、またこのために彼にとってけがれた戦慄すべきものであり、不正で、いやしいと見えるものはすべて、ものそのものの理解が無秩序で、断片的で、しかも混乱しているから生ずるということに気づいている。( 397 頁)

ここから「神への知的愛」が生じる。しかし、ここで注意すべきなのは、神を愛するがゆえに必然性を受け入れられるのではないということだ。そのような飛躍にこそ “躓き” の元がある。そして、必然性を受け入れるとは、胸をかきむしるような思いを経ずにはありえない。上に引用した文章を読むとき、私はヤン・デ・ウィットの死を想起する。そして、次のように書くスピノザにある種の悲観と明るさを見るのだ。

 定理三五 (…)  系一 理性の導きに従って生活している人間以上に人間にとって有益な個物は自然の中には見あたらない。( 342 頁)

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