ベルグソン全集 1   <<新装復刊>> 時間と自由 アリストテレスの場所論』

ベルグソン全集 1   <<新装復刊>>  時間と自由 アリストテレスの場所論ベルグソン全集 1   <<新装復刊>> 時間と自由 アリストテレスの場所論』平井啓之・村治能就・広川洋一 訳(白水社)、読了。

『純粋理性批判』と『実践理性批判』を読んだあとでカントとはまるっきり異質の哲学者の本が読みたくなってベルクソンを手に取ってみたのだけれど、偶然にも「時間と自由」は『批判』の批判のような論文だった。

本来は持続として捉えるべき時間をカントは空間と同じように等質で並置可能なものと見なす誤りを犯したのだとベルクソンはいう。ベルクソンによると、世人は時間を考えるときに空間の観念によって考えているのであって、真の持続を考えているのではない。

 私が時計の文字盤の上に振子の振動に呼応する指針の動きを目で追うとき、世人がそう信じているらしくみえるように、私は持続を計測しているのではない。私は同時性を数えるにとどまるのであって、これははっきりと別のことなのだ。( 103 頁)

振子の例にとられたような時間――空間と同様に等質の環境である時間――においては、すべての自由は了解できないものとなるだろうとベルクソンはいう。そして、自由を物自体の世界においたカントを批判する。

  (…) カントはむしろ自由を時間の外に位置させて、われわれの悟性に全面的に委ねられた現象の世界と、立入り禁止の物自体の世界とのあいだに、越え難い垣をきづくことを好んだのである。
 しかしおそらくこのような区別はあまりに割り切りすぎているし、この垣も人が考えるよりも越えやすいものなのだ。なぜなら、もしも偶然に、現実の持続の諸瞬間が、注意深い意識の知覚するところとなって、並置されるかわりに相互に浸透し合い、また、これらの瞬間がお互い同士で異質性を形成し、その異質性の中では必然的決定の観念などはどんな種類の意味ももたなくなるようなことになれば、そのときには、意識によって把握された自我は自由原因となるであろうし、われわれは自分自身を絶対的に認識することにもなるだろう。( 214 頁)

しかしこの「垣」の越えかたがもしあるとしても、それをベルクソンがこの本で明確にしてくれたとは思えない。なにかあいまいでイメージに頼った語りなのだ。あいかわらず original な思想家だと思うのだが、今回のこの本でも一抹のいかがわしさを感じずにはいられなかった。

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