メモ 2007 年 1 月 3 日

四国へ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 何事かを本源的に体験する者ならだれしも、その体験と同時に、観念的に、その体験の諸可能性とその反対の可能性とを体験するものである。これらの諸可能性は、彼の文学的な合法的財産なのである。しかしながら、彼自身の私的な人格的現実となると、そうはいかない。 (…) ( 241 頁)

ある体験をしたとき、ひとは、その体験が現実にそうあったのとは異なったかたちで起こりえたかもしれないという可能性をも、体験することができうる。ひとつの体験をするときにその体験における可能性をも含めて体験することは文学制作上のあるいは人生における豊かさである。ただし、そうするさい、自らの体験の現実性を忘れ、可能性だけとつきあうなら、その豊かさはただちにまぼろしとなる。

(…) なぜなら、観念性とは、反対のものとの均衡だからである。たとえば、ここに不幸になることによって製作するようになった男がいるとする。もし彼が実際に観念性によって制作に従事するようになったものであれば、彼は幸をも不幸をもおなじ慕情をもって制作するだろう。 (…) ( 242 頁)

ビール 2 リットル。

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