メモ 2007 年 1 月 1 日

夜中に携帯で 2 ちゃんの格闘板を見ていたら、桜庭 - 秋山戦がえらい騒ぎになってる。「すっごいすべるよ」。なるほど、かんじんのところでつかまえられないわけだ。

新年のあいさつをして、凧あげへ。

30 年ほどの凧あげブランクのある私にとっては強すぎず弱すぎずのちょうどいい風で、ケロロカイトがどんどんあがっていく。

糸を持つ手を息子にかわる。糸をとおして風を感じられるのが新鮮なようだ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 「公共」は、古代においてはまったく発生しなかった概念である。 (…) 強力な共同生活がその具体性を充実させることがもはやなくなったときに初めて、印刷物がこの公共という抽象性を作り出すのであろう。そして、その公共たるや、なんらかの場や組織が同時にあるところで一体化されることもけっしてなければ、また一体化されることもけっしてありえない非現実的な単独の人々から成立していて、しかも常に一個の全体として確保されるものなのである。 (…) ( 229 頁)

キルケゴールのいう「公共」とは、たんに個々の人間が集まった集合というわけではない。それは階級や職業などを問わず、どんな者でも参加できるものである。かといって、どれだけ多くの人数が参加しようと、それは人数なのではない。それは塊であって、しかも数ではない。《それ自身がひとつの抽象性》である。

(…) このような人々から、いいかえれば彼らが無である諸瞬間における単独の人人から、作り成されたものとして、公共は、すべての人々であってしかもだれでもないところの、ある巨大なエトヴァスであり、抽象的な荒蕪地、無人界なのである。だが、同じその理由によって、だれもが公共を所有していると僭称することができる。 (…) ( 232 頁)

上記ふたつの引用などは、ポストモダン的な文脈における「大衆」を先取りして定義しているといってもいい。個体の単独性を重視するキルケゴールは、このような「公共」とそれがおこなう「水平化」を当然にも斥ける。ただし、最終的にはそこから抜け出すべきであるにせよ、その徹底した無差別化のはたらきのゆえに、「『完全な平等』の意味での一個の人間らしい本質的な人間」への、ひいては宗教性への契機になりうるという点において、キルケゴールはそれを一時的に評価するのである。

(…) だが、「個人性」の原理は、その永遠の真理においては、世代という抽象や水平化するものとしての平等を利用し、そうすることにより個人を、その個人自身の共働のもとで、宗教的にひとりの真に人間らしい人間にまで発展させるものである。 (…) ( 227 頁)

ビール 1.5 リットル。

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