メモ 2007 年 1 月 5 日

Movable Type のインストールを試みたものの、データベースの設定で行き詰まる。以前のべつのサーバーでインストールしたときはこれといった支障もなく終ったのだが、今回はうまくいかず。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

 浮気とは何か。それは本質的に愛することと本質的に遊蕩であることとの情熱的な分離が止揚された結果である。 (…) 「浮気」は可能性と戯れるのである。 (…) ( 250 頁)

「浮気」をするものには内面性がない。それゆえ彼は現実と倫理的な関係にはいることはない。もちろん、ここでいう「現実」には浮気のあいてもふくまれる。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2007 年 1 月 4 日

胃が痛苦しくて目が覚める。正月は胃に負担がかかるというか、胃に負担をかけてしまう。

お昼すぎまで家でのんびり。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 「原理」 Principium とは、その語が意味するとおり、「第一のもの」いいかえれば「 実体的サブスタンシアルなもの」で、みずからの内的衝動によって個人を推進するところの「感情とか感激とかいった、いまだ開顕していない形における理念」である。ところが、これが情熱のない者には欠けている。 (…) ( 246 頁)

これがキルケゴールにおける原理の定義である。キルケゴールは、「原理のために」行動するものはこのような原理を欠いているのだという。

(…) 情熱のない者にとっては、原理は、そのために彼があることをなし、また別のことをもなし、またその反対のことをなすような、なにか外的なものになる。情熱のない者の生活は「自己を開顕し展開する原理」ではなく、むしろ彼の内的生活は、常に途上にあって「原理のために」何ごとかをなそうと追いもとめているところの、せわしない何ものかなのである。 (…) ( 246 頁)

ここでは、近年さまざまなかたちで我々の周りに露出した原理主義というものが、キルケゴールによって、正確に考察されている。

(…) 原理は、いまや、最もつまらない人間でさえ最もつまらない行動にそれをつけ加えて、そして自分自身をかぎりなく重要なものに仕立てるところの、怪物じみた何ものかである。 (…) ひとは原理のためにすべてのことをなすことができて、しかも各人の人格的責任をまぬがれることができるのである。 (…) ( 247 頁)

ビール 2 リットル。

メモ 2007 年 1 月 3 日

四国へ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 何事かを本源的に体験する者ならだれしも、その体験と同時に、観念的に、その体験の諸可能性とその反対の可能性とを体験するものである。これらの諸可能性は、彼の文学的な合法的財産なのである。しかしながら、彼自身の私的な人格的現実となると、そうはいかない。 (…) ( 241 頁)

ある体験をしたとき、ひとは、その体験が現実にそうあったのとは異なったかたちで起こりえたかもしれないという可能性をも、体験することができうる。ひとつの体験をするときにその体験における可能性をも含めて体験することは文学制作上のあるいは人生における豊かさである。ただし、そうするさい、自らの体験の現実性を忘れ、可能性だけとつきあうなら、その豊かさはただちにまぼろしとなる。

(…) なぜなら、観念性とは、反対のものとの均衡だからである。たとえば、ここに不幸になることによって製作するようになった男がいるとする。もし彼が実際に観念性によって制作に従事するようになったものであれば、彼は幸をも不幸をもおなじ慕情をもって制作するだろう。 (…) ( 242 頁)

ビール 2 リットル。

メモ 2006 年 1 月 2 日

母に頼まれた買い物をこなす。

新年の挨拶に従兄の家へ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

 饒舌とは何か。それは、黙することと語ることとの情熱的な分離の止揚である。本質的に黙しうる者だけが本質的に語りうるし、本質的に黙しうる者だけが本質的におこないうる。 (…) ( 240 頁)

饒舌は自分の外にあるすべてを話の種とし、どこまでもひろがっていく。そこには沈黙の内面性がない。

ビール 2.5 リットル。