Archive for 5月, 2007

メモ 2007 年 1 月 5 日

水曜日, 5月 30th, 2007

Movable Type のインストールを試みたものの、データベースの設定で行き詰まる。以前のべつのサーバーでインストールしたときはこれといった支障もなく終ったのだが、今回はうまくいかず。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

 浮気とは何か。それは本質的に愛することと本質的に遊蕩であることとの情熱的な分離が止揚された結果である。 (…) 「浮気」は可能性と戯れるのである。 (…) ( 250 頁)

「浮気」をするものには内面性がない。それゆえ彼は現実と倫理的な関係にはいることはない。もちろん、ここでいう「現実」には浮気のあいてもふくまれる。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2007 年 1 月 4 日

水曜日, 5月 30th, 2007

胃が痛苦しくて目が覚める。正月は胃に負担がかかるというか、胃に負担をかけてしまう。

お昼すぎまで家でのんびり。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 「原理」 Principium とは、その語が意味するとおり、「第一のもの」いいかえれば「 実体的サブスタンシアルなもの」で、みずからの内的衝動によって個人を推進するところの「感情とか感激とかいった、いまだ開顕していない形における理念」である。ところが、これが情熱のない者には欠けている。 (…) ( 246 頁)

これがキルケゴールにおける原理の定義である。キルケゴールは、「原理のために」行動するものはこのような原理を欠いているのだという。

(…) 情熱のない者にとっては、原理は、そのために彼があることをなし、また別のことをもなし、またその反対のことをなすような、なにか外的なものになる。情熱のない者の生活は「自己を開顕し展開する原理」ではなく、むしろ彼の内的生活は、常に途上にあって「原理のために」何ごとかをなそうと追いもとめているところの、せわしない何ものかなのである。 (…) ( 246 頁)

ここでは、近年さまざまなかたちで我々の周りに露出した原理主義というものが、キルケゴールによって、正確に考察されている。

(…) 原理は、いまや、最もつまらない人間でさえ最もつまらない行動にそれをつけ加えて、そして自分自身をかぎりなく重要なものに仕立てるところの、怪物じみた何ものかである。 (…) ひとは原理のためにすべてのことをなすことができて、しかも各人の人格的責任をまぬがれることができるのである。 (…) ( 247 頁)

ビール 2 リットル。

メモ 2007 年 1 月 3 日

水曜日, 5月 30th, 2007

四国へ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 何事かを本源的に体験する者ならだれしも、その体験と同時に、観念的に、その体験の諸可能性とその反対の可能性とを体験するものである。これらの諸可能性は、彼の文学的な合法的財産なのである。しかしながら、彼自身の私的な人格的現実となると、そうはいかない。 (…) ( 241 頁)

ある体験をしたとき、ひとは、その体験が現実にそうあったのとは異なったかたちで起こりえたかもしれないという可能性をも、体験することができうる。ひとつの体験をするときにその体験における可能性をも含めて体験することは文学制作上のあるいは人生における豊かさである。ただし、そうするさい、自らの体験の現実性を忘れ、可能性だけとつきあうなら、その豊かさはただちにまぼろしとなる。

(…) なぜなら、観念性とは、反対のものとの均衡だからである。たとえば、ここに不幸になることによって製作するようになった男がいるとする。もし彼が実際に観念性によって制作に従事するようになったものであれば、彼は幸をも不幸をもおなじ慕情をもって制作するだろう。 (…) ( 242 頁)

ビール 2 リットル。

メモ 2006 年 1 月 2 日

水曜日, 5月 30th, 2007

母に頼まれた買い物をこなす。

新年の挨拶に従兄の家へ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

 饒舌とは何か。それは、黙することと語ることとの情熱的な分離の止揚である。本質的に黙しうる者だけが本質的に語りうるし、本質的に黙しうる者だけが本質的におこないうる。 (…) ( 240 頁)

饒舌は自分の外にあるすべてを話の種とし、どこまでもひろがっていく。そこには沈黙の内面性がない。

ビール 2.5 リットル。

メモ 2007 年 1 月 1 日

火曜日, 5月 29th, 2007

夜中に携帯で 2 ちゃんの格闘板を見ていたら、桜庭 - 秋山戦がえらい騒ぎになってる。「すっごいすべるよ」。なるほど、かんじんのところでつかまえられないわけだ。

新年のあいさつをして、凧あげへ。

30 年ほどの凧あげブランクのある私にとっては強すぎず弱すぎずのちょうどいい風で、ケロロカイトがどんどんあがっていく。

糸を持つ手を息子にかわる。糸をとおして風を感じられるのが新鮮なようだ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 「公共」は、古代においてはまったく発生しなかった概念である。 (…) 強力な共同生活がその具体性を充実させることがもはやなくなったときに初めて、印刷物がこの公共という抽象性を作り出すのであろう。そして、その公共たるや、なんらかの場や組織が同時にあるところで一体化されることもけっしてなければ、また一体化されることもけっしてありえない非現実的な単独の人々から成立していて、しかも常に一個の全体として確保されるものなのである。 (…) ( 229 頁)

キルケゴールのいう「公共」とは、たんに個々の人間が集まった集合というわけではない。それは階級や職業などを問わず、どんな者でも参加できるものである。かといって、どれだけ多くの人数が参加しようと、それは人数なのではない。それは塊であって、しかも数ではない。《それ自身がひとつの抽象性》である。

(…) このような人々から、いいかえれば彼らが無である諸瞬間における単独の人人から、作り成されたものとして、公共は、すべての人々であってしかもだれでもないところの、ある巨大なエトヴァスであり、抽象的な荒蕪地、無人界なのである。だが、同じその理由によって、だれもが公共を所有していると僭称することができる。 (…) ( 232 頁)

上記ふたつの引用などは、ポストモダン的な文脈における「大衆」を先取りして定義しているといってもいい。個体の単独性を重視するキルケゴールは、このような「公共」とそれがおこなう「水平化」を当然にも斥ける。ただし、最終的にはそこから抜け出すべきであるにせよ、その徹底した無差別化のはたらきのゆえに、「『完全な平等』の意味での一個の人間らしい本質的な人間」への、ひいては宗教性への契機になりうるという点において、キルケゴールはそれを一時的に評価するのである。

(…) だが、「個人性」の原理は、その永遠の真理においては、世代という抽象や水平化するものとしての平等を利用し、そうすることにより個人を、その個人自身の共働のもとで、宗教的にひとりの真に人間らしい人間にまで発展させるものである。 (…) ( 227 頁)

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 31 日

火曜日, 5月 29th, 2007

桜庭が秋山に負けた。ショックだ。始めのほうの攻防で桜庭のほうが秋山より体の圧力があることがわかったんで安心してたんだけれど、チャンスすらつくれずに負けてしまった。

去年の小川の負けといい、最悪の気分での年越しがつづく。

ビール 2 リットル。

メモ 2006 年 12 月 30 日

火曜日, 5月 29th, 2007

実家へ。

故郷のジャスコの駐車場で、車のドアが落ちて来てることに気づく。買ってまだ 2 年たってないんだけどな。これがスバル品質ってやつか。運転席側のドアが 2mm ほど下がってるんで、ずれた窓ガラスが干渉してウェザーストリップが破れはじめてる。これは保証範囲なんだろうな。帰ってからディーラーに持っていこう。めんどくせ。ちなみに車は BL レガシィの B 型。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) さらにまた、ここでの父子は、父親としてのあらゆる権威をひとつの呪詛にあつめて怒る父親でもなければ、父に逆らう子でもない。それほどまでにはっきり分離しているのであれば、かえっておそらく和解の内面性において終わることも可能だっただろう。が、けっしてそうではなく、その関係はまるで文句のつけようのないものなのである。なぜなら、その関係はまさに関係であることをやめかかっているからである。 (…) ( 209 頁)

フロイト的にいっても、父子の対立は根源的なものなのであって、それをなくすのは不可能である。無理になくそうとしても、それは潜勢して、本人たちも気づかない隠微なものとなるだけだ。しかもそうすることは、おいおいにして、「相手」にではなく「関係」に重点が移る原因を生む。曰く「親子の良い関係の作り方」等々。しかし、目的は「関係」ではなく「関係する相手」だ。「関係」について悩んだり工夫したりすることは、すでに倒錯している。そして、このような倒錯した「関係」をキルケゴール的にいえば「緊張」ということになるのだが、それは《衰弱させる緊張》である。

(…) しかし、じゅうぶん注意すべきは、それが断ち切れるところまで力を張りきらせる緊張ではなくて、そのなかで現存在が衰弱させられ熱情も感激も内面性〔まごころ〕も失われてしまう緊張だということである。 (…) 関係はなるほど持続しているが、そこでの関係には、和合において一体にされるのに必要な、内面性に集中する緊張力が欠けているのだ。( 210 頁)

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 29 日

月曜日, 5月 28th, 2007

姫路セントラルパークへ。

雪が降りはじめた。さむい。

雪のせいもあってか、かなりすいてる。入場するといきなり猛獣ゾーンで、息子はすこしこわがってる。

ライオンが車のまえを横切ったり、虎のすぐ近くで車を停めることができたりと、自分たちの車でまわれるというのはいい。すいてるおかげで後ろを気にすることなく見てまわれる今日は、とくにいい。「とらさん、もういい。いやいや」。

「しかさんはやさしいなあ」。

ウォーキングサファリでは動物にえさをあげることができる。「くまさんがいっぱいおるなあ」。ほんとにいっぱいわらわらといて、なんか異様なながめ。野生ならしないであろう集団生活を熊がしてるからだろうか。

象にえさをあげる。「パパがあげてみな」。

雪が降りしきるなかで、ワラビーたちは寒そうにじっとしてる。

かわうそは池でじゃぶじゃぶ泳いでる。寒さに強いんだな。

とうぜん、サファリパークのとなりの遊園地へもよる。

ディアブロという絶叫系のマシーンに私ひとりで乗った。怖いというより爽快な乗り心地。

閉園時間になったので、最後に 3 人でメリーゴーラウンドに乗る。よろこんでる。

さあ帰ろうと思ったら、「もういっかいメリーゴーラウンドにのる ! 」。パスを見せて、そのままもう 1 回乗らせてもらう。

「たのしかったなあ」。

ホテルへ。

ビール 1.5 リットル。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) ところで、「讃嘆」という関係の真相は、讃嘆する者が、その優秀な人も人間なら自分もおなじ人間なのだと考えることによって高揚され、自分にはしかしその偉大な業をやりとげることができなかったという点を念頭におくことによって謙遜になり、しかもその模範によって力のかぎりその優秀な人の例にならうよう倫理的に励まされること、それが普通である。 (…) ( 198 頁)

はてなブックマークなんかでおこなわれてる讃嘆は、引用のようなものとは程遠い。

メモ 2006 年 12 月 28 日

月曜日, 5月 28th, 2007

大掃除を終えた。

大西巨人文選 3  錯節  1977-1985 大西巨人文選 3 錯節 1977-1985 (みすず書房)、読了。

 人は、どんな道にも、いかなる組織体、運動体にも、「必然の悲しさで」「行」くべきであり、、また組織体、運動体は、成員各個の資質性格力量能力を――彼がその組織体、運動体に参加することなく単独に生きる場合よりも――ずいぶん前進的に伸張・発展せしめるとき、有意義な運動体、立派な組織体であり得るのである。 (…) ( 342 頁)

ここでいう「必然」とは内的な必然性のことであって、外的な必然性などは中野重治のいう「偶然のおかしさ」にすぎない。

ビール 1.5 リットル

ダービー翌日

月曜日, 5月 28th, 2007

惨めな予想をしてしまいました。きのうダービーがおわってからは、じぶんの情けなさが悔しくて悔しくてずっと奥歯をギリギリいわせてました。ここも閉めようかとちらりと考えたりしたんですが、そうすると競馬にたいする気力がますます失せていきそうでもあるし、なによりこんな形で終ることは自分で許せないみたいなんで恥ずかしくても続けていきます。

で、回顧できる立場でないのは承知のうえであえて回顧すれば、ゆるい流れになったということがやはり今回のダービーの結果を左右した大きなポイントではあるでしょう。とはいえ、もうすこし厳しい流れになっていたとしても、フサイチホウオーが走れない状態ではほかにウオッカに勝てる馬がいたとも思えず、どのみちウオッカが勝ったような気がします。

“M” の基本に忠実にやってれば見えたかもしれないことを余分なことをやろうとして見失ったというのが自分の悔しさと恥ずかしさとの主な原因だと思います。ただ、それでもその余分なことをやっていくんですが。

とりあえず、いまの芝ではかなりのスローにでもならないかぎりスズカフェニックスは安田記念では間に合わないと考えます。

あと、ダービーの馬券はナムラマースが 3 着になることを前提にして同馬から組み立てて買ったんですが、半ば覚悟してたとおり後ろの位置取りになってしまいました。しかも、かんちがいしての後方待機じゃなくて、藤岡騎手のコメントによると前につけたかったのにかぶされて下げたとのこと。これも覚悟してたことで、藤岡は位置取りにこらえ性がなくて先行すべき馬に乗ったときでもちょっとかぶされるとずるずる下がっていくときが多々あります。

東京 9R むらさき賞

日曜日, 5月 27th, 2007

前走でストレスを抜いた 2 アクレイムが本命。

単勝 2   1 万円

  1. 1 着  4 カイシュウタキオン  2 番人気
  2. 2 着  6 エイシンニーザン  3 番人気
  3. 6 着  2 アクレイム  4 番人気

不的中

連対 2 頭は延長だったのにたいして短縮だったアクレイムは後方の位置取りになって間に合わずという、この日の東京の芝らしい結末でした。 (2007-05-25-06:45)

ダービー展望

日曜日, 5月 27th, 2007

ここ 3 週間ほどインターネットのできる環境になくて、まったく更新できませんでした。 JRA-VAN もグリーンチャンネルもなかったし競馬新聞すら手にはいらないときがほとんどという状況でもあって、競馬からずいぶん遠ざかってしまってます。競馬新聞の見かたが体から抜けちゃったみたいで、眺めてもさっぱりわかりません。リハビリがてら堅そうだけどダービーの展望からやります。

1 タスカータソルテ
いろいろ足りないところはあるけれど、鞍上が武というのはダービーではやっぱり大きくはあって。
49 点

2 ゴールドアグリ
このリズムでは。
43 点

3 ウオッカ
牡馬あいてのこの距離はやはりきつそうで。
48 点

4 ゴールデンダリア
切れの馬。近年のダービーだと、もうすこし量がほしくて。ただ、集中状態で鮮度と勢いもあるので、この枠ならそのあたりはごまかせる可能性はあって。
49.5 点

5 トーセンマーチ
軽い集中状態。能力的に足りないものの、馬場の助けがあれば。
47 点

6 マイネルフォーグ
ストレスはないが。
47 点

7 フィニステール
3 着争いの 1 角で。
48 点

8 ドリームジャーニー
最後方からの追い込みが決まるような馬場とも思えず。
47 点

9 ヒラボクロイヤル
集中状態も、近 2 走の重賞をどちらも人気以上に走ってしまっている点で疲労が心配で。あと、もうすこし摩擦のある馬場のほうが。
49 点

10 プラテアード
一本調子な印象で。
46 点

11 ナムラマース
速い馬場で後ろにかまえた皐月賞の惨敗はとうぜんの結果。ふつうに流れにのっていけば巻き返しは可能で。藤岡だけにそこが不安なものの。
51 点

12 サンツェッペリン
前走のほうが適性があって。
47 点

13 ローレルゲレイロ
へんに下げなければ。
48 点

14 アドマイヤオーラ
弥生賞を勝って皐月賞をかるく負けるという、ひと昔まえの黄金パターンではある。
49 点

15 フサイチホウオー
55 点

16 アサクサキングス
もうひと工夫あれば。
48 点

17 ヴィクトリー
安定感はないものの意欲は強くて。
49.5 点

18 フライングアップル
1800m ベストで。
47 点