M の法則における体力と量について

ここ何年か量と体力について考えてきて、まだ結論は出ていないのですが、とりあえず今の段階では体力とは馬が限界に近い領域での負荷に耐えられる時間で、量とはその馬が加速を始めてから最高速度に達するまでの時間だと考えてます。もう少し具体的にいうと、差し馬が 3 コーナーすぎから加速をはじめて自身のトップスピードに達するまでが量の領域で、トップスピードに達した後でその速度を維持するのが体力の領域というイメージです。

たとえば、量が豊富で体力の少ない馬は、息長く加速してくるのですが、レッドゾーンに達した後で坂にかかると失速します。そういう意味で、慣性力のままに伸びられる外伸びの京都がむきます。逆に、加速をはじめてからトップスピードに達するまでに時間がかかるので、緩急のある流れだと差し遅れます(昔の東京とか)。要するに、量の豊富さと切れとは背反するということです。

先週のすみれ S の出走馬の 2 頭ををその観点から見てみると、ベッラレイアは切れが凄い。トップスピードに達するまでの時間は現役馬中でも屈指でしょう。ただ、肝心のトップスピード自体はそれほど高くない。 3 速まであっという間に吹け上がるんだけど、 4 速から上がない車のような感じです。体力もそれほどではなさそうなので、レベルの高いレースではよほど条件が揃わないと突き抜けられないでしょう。もう 1 頭ニュービギングもトップスピードはそれほど高くない馬です。切れもたいしてありません。ただ、トップスピードも低いので、その点でトップスピードに達するまでの時間は短めです。そこでこの馬には(サンデーの系統としては)豊富な体力が与えられています。そこで、一定のスピードに達したあとで、延々それを持続するというような走りになる。あとはそれでの他馬の脱落待ち(ホープフル S )。

実馬にあてはめていくとこういった感じになります。まだまったく詰めてない状態ですが。精神面にあわせて、こういった面の考察もぼちぼちやっていきます。

メモ 2006 年 12 月 5 日

大西巨人文選 2  途上  1957-1974 大西巨人文選 2 途上 1957-1974 (みすず書房)。

(…) それやこれやのことから、私は、明確な論理性を貫徹すること、それと同時に音楽的な〔 ? 〕律動性(緊張性)を――漢語・漢文脈的表現の採用(多用)に頼ることなくして――生み出すこと、そういう目標にむかって励んでいる――言わば模索しつつ進もうとしているわけです。 (…) ( 307 頁)

文章において曖昧さがあれば、それはけっきょく思考にも曖昧さがあるということである。逆にいえば、文章の論理性を貫徹しようとすれば、思考の上でもそうせざるを得ない。そしてその貫徹がなされた文章は読む者を心地良くさせる。次に引用する文章のように。

(…) 毎日たくさんの人間が死んでいる。自然死があり、病死があり、横死があり、戦死があり、他殺があり、自殺がある。それらの死にたいして、私は、だいたい特殊具体的な哀悼あるいは驚愕を感じない。私は、人間私の冷淡において、または人間私の鈍感において、または最も多く人間私の自然において、特殊具体的な哀悼あるいは驚愕を感じない。 (…) ( 324 頁)

ビール 3 リットル。

メモ 2006 年 12 月 4 日

大西巨人文選 2  途上  1957-1974 大西巨人文選 2 途上 1957-1974 (みすず書房)。

 世の中には、次ぎのような種類の妻がいる。彼女は、その夫が金で女を買うこと・売春婦に接することを、つまり大目に見ることができる。しかし彼女は、その夫が愛人を持つこと・他の女と恋愛することを、決して大目に見ることができない。 (…) ( 213 頁)

世間で(また、それだけでなく創作物の上でも)よく見かける態度である。

(…) この種の妻は、一人の男が、――よしんばそれが彼女の夫であっても、――ある女と金によって性交を行なうのと、ある女と恋愛によって性交を行なうのと、そのどちらが人間的・倫理的であるか、を正当に比較して考えることができない。 (…) ( 214 頁)

「この種の妻」においてこの比較を行うには、自分にたいするある種の態度変更が必要であろう。

(…) 一般に妻は、その夫が第三者女性と交合しないことを願望期待するのが当然であり、しかし不幸にしてそのような事態が発生した場合には、せめてそれは恋愛による交合であることを念願するべきである(それが人間的・倫理的であろう)、と私は考えざるを得ない。これは、夫についても同断である。 (…) ( 214 頁)

たぶんその態度変更は、どこかにフロイト的な意味でのユーモアを含むだろう。

ビール 2.5 リットル。