メモ 2007 年 1 月 4 日

胃が痛苦しくて目が覚める。正月は胃に負担がかかるというか、胃に負担をかけてしまう。

お昼すぎまで家でのんびり。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 「原理」 Principium とは、その語が意味するとおり、「第一のもの」いいかえれば「 実体的サブスタンシアルなもの」で、みずからの内的衝動によって個人を推進するところの「感情とか感激とかいった、いまだ開顕していない形における理念」である。ところが、これが情熱のない者には欠けている。 (…) ( 246 頁)

これがキルケゴールにおける原理の定義である。キルケゴールは、「原理のために」行動するものはこのような原理を欠いているのだという。

(…) 情熱のない者にとっては、原理は、そのために彼があることをなし、また別のことをもなし、またその反対のことをなすような、なにか外的なものになる。情熱のない者の生活は「自己を開顕し展開する原理」ではなく、むしろ彼の内的生活は、常に途上にあって「原理のために」何ごとかをなそうと追いもとめているところの、せわしない何ものかなのである。 (…) ( 246 頁)

ここでは、近年さまざまなかたちで我々の周りに露出した原理主義というものが、キルケゴールによって、正確に考察されている。

(…) 原理は、いまや、最もつまらない人間でさえ最もつまらない行動にそれをつけ加えて、そして自分自身をかぎりなく重要なものに仕立てるところの、怪物じみた何ものかである。 (…) ひとは原理のためにすべてのことをなすことができて、しかも各人の人格的責任をまぬがれることができるのである。 (…) ( 247 頁)

ビール 2 リットル。

メモ 2007 年 1 月 3 日

四国へ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 何事かを本源的に体験する者ならだれしも、その体験と同時に、観念的に、その体験の諸可能性とその反対の可能性とを体験するものである。これらの諸可能性は、彼の文学的な合法的財産なのである。しかしながら、彼自身の私的な人格的現実となると、そうはいかない。 (…) ( 241 頁)

ある体験をしたとき、ひとは、その体験が現実にそうあったのとは異なったかたちで起こりえたかもしれないという可能性をも、体験することができうる。ひとつの体験をするときにその体験における可能性をも含めて体験することは文学制作上のあるいは人生における豊かさである。ただし、そうするさい、自らの体験の現実性を忘れ、可能性だけとつきあうなら、その豊かさはただちにまぼろしとなる。

(…) なぜなら、観念性とは、反対のものとの均衡だからである。たとえば、ここに不幸になることによって製作するようになった男がいるとする。もし彼が実際に観念性によって制作に従事するようになったものであれば、彼は幸をも不幸をもおなじ慕情をもって制作するだろう。 (…) ( 242 頁)

ビール 2 リットル。

メモ 2006 年 1 月 2 日

母に頼まれた買い物をこなす。

新年の挨拶に従兄の家へ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

 饒舌とは何か。それは、黙することと語ることとの情熱的な分離の止揚である。本質的に黙しうる者だけが本質的に語りうるし、本質的に黙しうる者だけが本質的におこないうる。 (…) ( 240 頁)

饒舌は自分の外にあるすべてを話の種とし、どこまでもひろがっていく。そこには沈黙の内面性がない。

ビール 2.5 リットル。

メモ 2007 年 1 月 1 日

夜中に携帯で 2 ちゃんの格闘板を見ていたら、桜庭 – 秋山戦がえらい騒ぎになってる。「すっごいすべるよ」。なるほど、かんじんのところでつかまえられないわけだ。

新年のあいさつをして、凧あげへ。

30 年ほどの凧あげブランクのある私にとっては強すぎず弱すぎずのちょうどいい風で、ケロロカイトがどんどんあがっていく。

糸を持つ手を息子にかわる。糸をとおして風を感じられるのが新鮮なようだ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 「公共」は、古代においてはまったく発生しなかった概念である。 (…) 強力な共同生活がその具体性を充実させることがもはやなくなったときに初めて、印刷物がこの公共という抽象性を作り出すのであろう。そして、その公共たるや、なんらかの場や組織が同時にあるところで一体化されることもけっしてなければ、また一体化されることもけっしてありえない非現実的な単独の人々から成立していて、しかも常に一個の全体として確保されるものなのである。 (…) ( 229 頁)

キルケゴールのいう「公共」とは、たんに個々の人間が集まった集合というわけではない。それは階級や職業などを問わず、どんな者でも参加できるものである。かといって、どれだけ多くの人数が参加しようと、それは人数なのではない。それは塊であって、しかも数ではない。《それ自身がひとつの抽象性》である。

(…) このような人々から、いいかえれば彼らが無である諸瞬間における単独の人人から、作り成されたものとして、公共は、すべての人々であってしかもだれでもないところの、ある巨大なエトヴァスであり、抽象的な荒蕪地、無人界なのである。だが、同じその理由によって、だれもが公共を所有していると僭称することができる。 (…) ( 232 頁)

上記ふたつの引用などは、ポストモダン的な文脈における「大衆」を先取りして定義しているといってもいい。個体の単独性を重視するキルケゴールは、このような「公共」とそれがおこなう「水平化」を当然にも斥ける。ただし、最終的にはそこから抜け出すべきであるにせよ、その徹底した無差別化のはたらきのゆえに、「『完全な平等』の意味での一個の人間らしい本質的な人間」への、ひいては宗教性への契機になりうるという点において、キルケゴールはそれを一時的に評価するのである。

(…) だが、「個人性」の原理は、その永遠の真理においては、世代という抽象や水平化するものとしての平等を利用し、そうすることにより個人を、その個人自身の共働のもとで、宗教的にひとりの真に人間らしい人間にまで発展させるものである。 (…) ( 227 頁)

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 31 日

桜庭が秋山に負けた。ショックだ。始めのほうの攻防で桜庭のほうが秋山より体の圧力があることがわかったんで安心してたんだけれど、チャンスすらつくれずに負けてしまった。

去年の小川の負けといい、最悪の気分での年越しがつづく。

ビール 2 リットル。

メモ 2006 年 12 月 30 日

実家へ。

故郷のジャスコの駐車場で、車のドアが落ちて来てることに気づく。買ってまだ 2 年たってないんだけどな。これがスバル品質ってやつか。運転席側のドアが 2mm ほど下がってるんで、ずれた窓ガラスが干渉してウェザーストリップが破れはじめてる。これは保証範囲なんだろうな。帰ってからディーラーに持っていこう。めんどくせ。ちなみに車は BL レガシィの B 型。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) さらにまた、ここでの父子は、父親としてのあらゆる権威をひとつの呪詛にあつめて怒る父親でもなければ、父に逆らう子でもない。それほどまでにはっきり分離しているのであれば、かえっておそらく和解の内面性において終わることも可能だっただろう。が、けっしてそうではなく、その関係はまるで文句のつけようのないものなのである。なぜなら、その関係はまさに関係であることをやめかかっているからである。 (…) ( 209 頁)

フロイト的にいっても、父子の対立は根源的なものなのであって、それをなくすのは不可能である。無理になくそうとしても、それは潜勢して、本人たちも気づかない隠微なものとなるだけだ。しかもそうすることは、おいおいにして、「相手」にではなく「関係」に重点が移る原因を生む。曰く「親子の良い関係の作り方」等々。しかし、目的は「関係」ではなく「関係する相手」だ。「関係」について悩んだり工夫したりすることは、すでに倒錯している。そして、このような倒錯した「関係」をキルケゴール的にいえば「緊張」ということになるのだが、それは《衰弱させる緊張》である。

(…) しかし、じゅうぶん注意すべきは、それが断ち切れるところまで力を張りきらせる緊張ではなくて、そのなかで現存在が衰弱させられ熱情も感激も内面性〔まごころ〕も失われてしまう緊張だということである。 (…) 関係はなるほど持続しているが、そこでの関係には、和合において一体にされるのに必要な、内面性に集中する緊張力が欠けているのだ。( 210 頁)

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 29 日

姫路セントラルパークへ。

雪が降りはじめた。さむい。

雪のせいもあってか、かなりすいてる。入場するといきなり猛獣ゾーンで、息子はすこしこわがってる。

ライオンが車のまえを横切ったり、虎のすぐ近くで車を停めることができたりと、自分たちの車でまわれるというのはいい。すいてるおかげで後ろを気にすることなく見てまわれる今日は、とくにいい。「とらさん、もういい。いやいや」。

「しかさんはやさしいなあ」。

ウォーキングサファリでは動物にえさをあげることができる。「くまさんがいっぱいおるなあ」。ほんとにいっぱいわらわらといて、なんか異様なながめ。野生ならしないであろう集団生活を熊がしてるからだろうか。

象にえさをあげる。「パパがあげてみな」。

雪が降りしきるなかで、ワラビーたちは寒そうにじっとしてる。

かわうそは池でじゃぶじゃぶ泳いでる。寒さに強いんだな。

とうぜん、サファリパークのとなりの遊園地へもよる。

ディアブロという絶叫系のマシーンに私ひとりで乗った。怖いというより爽快な乗り心地。

閉園時間になったので、最後に 3 人でメリーゴーラウンドに乗る。よろこんでる。

さあ帰ろうと思ったら、「もういっかいメリーゴーラウンドにのる ! 」。パスを見せて、そのままもう 1 回乗らせてもらう。

「たのしかったなあ」。

ホテルへ。

ビール 1.5 リットル。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) ところで、「讃嘆」という関係の真相は、讃嘆する者が、その優秀な人も人間なら自分もおなじ人間なのだと考えることによって高揚され、自分にはしかしその偉大な業をやりとげることができなかったという点を念頭におくことによって謙遜になり、しかもその模範によって力のかぎりその優秀な人の例にならうよう倫理的に励まされること、それが普通である。 (…) ( 198 頁)

はてなブックマークなんかでおこなわれてる讃嘆は、引用のようなものとは程遠い。

メモ 2006 年 12 月 28 日

大掃除を終えた。

大西巨人文選 3  錯節  1977-1985 大西巨人文選 3 錯節 1977-1985 (みすず書房)、読了。

 人は、どんな道にも、いかなる組織体、運動体にも、「必然の悲しさで」「行」くべきであり、、また組織体、運動体は、成員各個の資質性格力量能力を――彼がその組織体、運動体に参加することなく単独に生きる場合よりも――ずいぶん前進的に伸張・発展せしめるとき、有意義な運動体、立派な組織体であり得るのである。 (…) ( 342 頁)

ここでいう「必然」とは内的な必然性のことであって、外的な必然性などは中野重治のいう「偶然のおかしさ」にすぎない。

ビール 1.5 リットル

メモ 2006 年 12 月 27 日

自分が RSS リーダーをつかってみてはじめて、その便利さに気づいた。全文を出力すれば読者がブラウザでサイトを訪れる必要すらないという自由さがいい。私のサイトでも使いたい。となると、 blog にするのがてっとりばやいかな。

もっかい ! 『もっかい ! 』イアン・ホワイブロウ文 セバスチャン・ブラウン絵 中川ひろたか訳(主婦の友社)。

夜ねむる前、もういっかいもういっかいと、お父さんに絵本をなんども読んでもらうお話。動物もいろいろ出てくる。私もねむる前になんども読まされる。

大西巨人文選 3  錯節  1977-1985 大西巨人文選 3 錯節 1977-1985 (みすず書房)。

 前述の事実(作品総計六十三篇のうち、純然たる「名詞止めの文章による結末」の作品が、ただ一つのみである、という事実)は、 (イ) 「現代口語体」においては名詞止めの実行がなかなかむずかしい(「現代口語体」における名詞止めの採用ないし多用がしばしば文の体をいやしくする)、 (ロ) 「雅文(文語体)」においては名詞止めの実行が割合にたやすい(「雅文〔文語体〕」における名詞止めの採用ないし多用が必ずしも文の体をいやしくしない)、というような事情に由来したであろう。 (…) ( 249 頁)

現代口語体において、語り手は中性的な(あるいは公共的な)属性をもたされているのだが、そこに体言止めが使われると、語り手が読者にとって異物(他者)としてあらわれてしまい公共性がうしなわれてしまうのだろうと、ひとまず私は推測する。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 26 日

更新チェッカーとしてはてなアンテナを長らく常用してきたものの、はてなリーダーのほうが使い勝手がいい。ということで、 RSS を出力してくれているサイトに関してはアンテナからリーダーへ移行。

大西巨人文選 3  錯節  1977-1985 大西巨人文選 3 錯節 1977-1985 (みすず書房)。

 私が召集せられた際、「入隊兵名簿に、私の氏名が、「大西京都」と書かれていた。 (…) ( 52 頁)

(…) 浦和居住時代のあるとき、私の一家四人が、めずらしく揃って病気をした。某新聞社学芸部記者が見舞いに来て、籠入りの果物を呉れた。彼が帰ってから、私が見ると、「御見舞 / 大西巨人軍御中 / ××新聞社学芸部」という墨書の紙札が籠に付いていた。 (…) ( 53 頁)

愛情を持ちつつ自分を客観視するところにユーモアが生まれることを、これらの文章はおしえてくれる。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 25 日

大西巨人文選 3  錯節  1977-1985 大西巨人文選 3 錯節 1977-1985 (みすず書房)。

 それにしても、一方における「(実質的な)複雑化」と他方における「(外見的な)のっぺらぼう化」が現代の特徴的性格であるとする見方の現実味を、私は、感性的に承認することができる。それは、魅力的な構図でさえある。それゆえそれは、悟性的に――具体的あるいは原理的に――説明せられるべきであろう。 (…) ( 36 頁)

人は、しかし、悟性的に説明すべきものを感性的なあいまいな説明(にもならぬごまかし)で放置しがちである。私は自戒する。

ビール 2 リットル。

メモ 2006 年 12 月 24 日

馬券は 7 戦 2 勝で 6 万 7 千円のプラス。

息子はたくさんクリスマスプレゼントをもらってた。

妻の両親からは組み立てクーゲルバーンのスターターセット。
組み立てクーゲルバーン・スターターセット

妻の姉夫婦からはレゴのワイルドアニマル。

レゴ デザイナー ワイルドアニマル 4884

姪っ子からはトミカ ドライブえほん 【こうじげんばで ゴー ! 】

トミカ ドライブえほん 【こうじげんばで ゴー ! 】

私の母からはアンパンマンのテレビでパソコン大好き

それいけ ! アンパンマン テレビでパソコンだいすき

妻と私からはレゴ基本セット 赤いバケツとプラレールのこんなにできちゃう ! レールいっぱいセットペネロペの絵本

レゴ基本セット 赤いバケツ 7336

こんなにできちゃう ! レールいっぱいセット

メリークリスマス、ペネロペ !

メリークリスマス、ペネロペ ! 『メリークリスマス、ペネロペ ! 』(岩崎書店)アン・グッドマン作 ゲオルグ・ハンスレーベン作 ひがし かずこ訳。

こないだ本屋さんにいったとき、「ペネロペ、ペネロペ」とおしえてくれた。テレビでやってるのね。そのときからクリスマスのプレゼントはこれにしようと妻と決めてた。

はっきりした色彩だけどどぎつくはなく、キャラクターもかわいくて、しかけも楽しい。何回もあそんでる。ただ、そのしかけが華奢で、手荒にあそぶと破れそうなのがちょっと心配ではある。じっさい、本屋の見本は、しかけのところが全部やぶれてた。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳、読了。

(…) だが、信仰ははたして地上において見いだされるであろうか。 (…) ( 185 頁)

これはべつに、彼岸においてこそ信仰があるというようなもってまわったいいかたなのではなく、文字どおりのただの反語である。地上には信仰は見いだされない。天上のことは知らん。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 23 日

ビール 1 リットルで朝寝。

馬券は 1 戦 1 敗で 5 万円のマイナス。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) 人間が他の動物と区別されるのは、普通によくかぞえ上げられるような特長のゆえではなく、個体または個人が種族一般を超えていることのゆえである。 (…) ( 173 頁)

動物には歴史がない。よって、種族という抽象性を超える契機がない。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 22 日

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) まずはじめに、キリスト教が出てきて、人間の理解力ではつかめないほどしっかりと、罪を積極的なものとしてうちたてる。そのうえでふたたびこの同じキリスト教が、人間の理解力ではけっしてつかめないようなしかたで、この積極的な罪をとりのぞくことをひきうける。 (…) ( 144 頁)

「人間の理解力ではつかめない」ことを信じるのが信仰である。人間には不可能であるかのようなそのことについて語った本が『おそれとおののき』だ。あれはキルケゴールを読む上で鍵となる。

ビール 3 リットル。

メモ 2006 年 12 月 21 日

おやすみなさい『おやすみなさい』リーヴ・リンドバーグ文 ジル・マックエルマリー絵 なかがわみちこ(アリス館)。

息子は気に入ってるようで。作者はリンドバーグの娘さんなのね。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) 彼が正しいことをおこなわないならば、彼はそれを理解してもいなかったのである。彼がほんとうにそれを理解していたならば、それは彼をうながしてそれをおこなわせたはずであり、彼をして彼の真理の代表者たらしめたはずである。それゆえに、罪は無知である。 (…) ( 133 頁)

これがソクラテス的な罪の定義である。この観点にたてば、「正しいことについての知識をもちながら、しかもなお不正をおこなう、という」ことはありえないことになる。なぜなら、「ある人が不正をおこなうならば、その人は正しいことを理解していなかったの」であるから。

(…) けれどもキリスト教はさらに根源へさかのぼる。 (…) 人間は、正しいことを理解していても、それをおこなうことをおこたるものである。あるいははなはだしきは(本来の意味の傲慢から)、正しいことを理解していながら、あえて不正をなすものである (…) ( 137 頁)

しかし、キルケゴールがいうこのキリスト教的罪の定義では、じつはソクラテス的なものを論破したことにはならない。それは《理解》というものの位相のちがいによるが、それをキルケゴールはうまく説明できていない。なぜなら。

 しかしながら人間はこのキリスト教的なものを理解することができるであろうか。できるわけがない。キリスト教的なものは実にそういうものである。したがってそれは躓きをおこさせる。それは信ぜられなければならない。 (…) 躓きの可能性は、罪が何であり罪がいかに深くささりこんでいるかを人間に説明してやるためには神のほうから来る啓示が必要だというところにある。( 137 頁)

ビール 2 リットル。

メモ 2006 年 12 月 20 日

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) 迷っている者が最も必要とするものは、つねに、当人にとって最も思いつきがたいものである。 (…) ( 133 頁)

とうぜん、その「必要とするもの」が外からやってきたとしても、それに気づくことができない。

ビール 2 リットル。

メモ 2006 年 12 月 19 日

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) 自己は自分を悩ましているものに対して、それが自分といっしょに自己に属しているものであることを認めようとはしない。 (…) ( 102 頁)

これが「世間で『あきらめ』という名」でよばれているものの内的形式であり、あきらめているものは「絶望して自己自身であろうと欲する」。しかし、恣意的に限定されたものでしかない。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 18 日

ちがいがわかる 写真絵本シリーズ どうぶつの赤ちゃん イルカ イルカ』増井光子監修(金の星社)。

イルカ、好きだねえ。現実感が希薄になっちゃうほどきれいな海。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) 彼の具体的な自己は、いうまでもなく、必然性と限界とをもち、まったく規定されたあるものである。 (…) ( 97 頁)

これが人間だれしもの姿なのだが、《絶望して自己自身であろうとよくする絶望》にあるものは、これを自己の否定であると感じて絶望する。しかし、そのようなやりかたで自己に関心を持つことはたんなる「実験」であって、そこで扱われる自己は《仮定的な自己にすぎない》。

(…) とにかく自己は、徹頭徹尾、そこに置かれたままの自己であって、自己を二重化してみたところで自己以上になるのでもなければ自己以下になるのでもない。 (…) ( 99 頁)

ビール 4.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 17 日

森林公園へ。山の上にあって、えらい広い。

馬券は 3 戦 1 勝で 65 万 5 千円のプラス。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) 彼はいつもくりかえしくりかえし、自分はやっぱり弱気なのだと自分自身に言ってきかせる。けれども彼は、自分の弱気についてのいやいやながらの告白より以上には、一歩も出ない。彼にそれ以上一歩も踏み出させないのは、彼の傲慢がさせているのである。 (…) ( 93 頁)

自己自身への絶望は、しかし傲慢なものである。自己自身に絶望しているものに、つぎのような忠告があったとする。

(…) 「 (…) 君の進むべき道はこうだ。自己に対する絶望をとおして自己自身へ。むろん、君は弱い。それは君の言うとおりだが、しかし君はそのために絶望してはならない。君の自己は、自己自身へ到達するために、破られなければならない。そんなことで絶望するのはやめたまえ。」 (…) ( 94 頁)

彼はこれを理解する。しかしこの言葉にしたがうことはできない。《情熱はふたたび彼を誤らせるであろう》。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 16 日

ママが仕事なので、息子とふたりで動物園へ。

ふれあいコーナーでハムスターをだっこしたり、うさぎさんをなでたりしてる。はじめての経験だね。「うさぎさん、わたがしみたいにふわふわしとるなあ」。

遊園地ではロボットの遊具に乗って、「ばいきんまんろぼっとだ。がおー」だって。お金を入れてあげたけど、故障中なのか動かない。動かないのに、乗ったり降りたりをくりかえしてる。階段をのぼって乗りこんで「ばいきんまんろぼっとだ ! 」、降りたと思ったら、またすぐに階段をぎゃく戻り。操縦席とか操縦レバーとかが気にいったんだろうな。満足するまでさせてあげようと思ったけど、 30 分たっても一向におわりそうもない。「もう帰ろうか」といっても、「まだ ! 」といって延々ループ。しょうがないので抱っこしてそこを離れたら大泣きしちゃった。

馬券は 2 戦 2 敗で 5 万円のマイナス。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) この世的現世的なものよりも下にあることは自己として恥ずべき弱気だということを彼に感じさせるものは、彼の自己のうちにあってこの世を越えたもの、現世を越えたもの、世間を越えたもの、すなわち永遠的なものである。 (…) ( 88 頁)

きのう読んだような自己自身への絶望には、永遠的なものへの意識が存在する。というより、キルケゴールは、このような絶望なしに永遠的なものは意識にのぼってこられないのだという。そして、

(…) この世を重く見るのあまり絶望するにいたった自分の弱気について彼が絶望しているのだとすれば、この世のものは単なる機縁にすぎないものとしてまったく背後へひきさがってしまう。絶望にいたらせるものはもはやこの世のものへの関係のうちにあるのではなくて、自己自身への関係のうちにあることになる。 (…) ( 89 頁)

この形の絶望は、外に原因を持たない自己自身に対する絶望であり、それゆえどこまでもつづく。しかも、それは前の段階の絶望のように、「忘却によって救われるということ」もない。

(…) そのためには自己はいまではあまりに自己でありすぎる。 (…) ( 90 頁)

ビール 2 リットル。

メモ 2006 年 12 月 15 日

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) 彼はこの世の何ものかに絶望しているつもりで、いつも自分の絶望している当のものについて語るが、その実、彼は永遠なものについて絶望しているのである。なぜなら彼がこの世に対してかくも大きな価値を置くこと (…) 、それこそがまさしく永遠なものについての絶望である。 (…) ( 88 頁)

そういう意味では、いままでの絶望も、永遠なものについての絶望である。この事情を知るにしたがって、彼の絶望は高度なものとなる。

彼は彼がこの世で彼の欲する何ものかを持つことができないこと(持つことができない人間であること)によって絶望した。しかしやがて、その絶望は不当であったと感じるようになった。彼は、それを、そのような境遇を受け入れられない自己の弱さでしかないとする。そして彼は、そのようなことで絶望した彼自身に絶望する。

(…) しかしその場合には、自己自身についての、また自己自身へのこの絶望は、新しいいっそう深い事態として、ともかくも本質的な進歩を意味することになる。 (…) ( 89 頁)

ビール 2.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 14 日

リサとガスパールのはくぶつかん『リサとガスパールのはくぶつかん』アン・グットマン文 ゲオルグ・ハンスレーベン絵 石津ちひろ訳(ブロンズ新社)。

「きょうりゅうのほね」が出てくるという、それだけでもう好きみたい。それにしても、「ペネロペ」といい、この夫妻はいまいちばん売れてる絵本作家じゃなかろうか。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

 絶望は必ずしもつねに外的な衝撃や出来事によっておこるものではなく、単なる反省によってもひきおこされることがあるというところまでくると、たちまち進歩が見られる。 (…) ( 79 頁)

この、絶望のつぎの段階では、外的なもののはたらきだけではなく、それとは異なった「自己のはたらき」がある。しかしそれは「ある程度まで」である。

(…) しかし自己が、ある程度までにせよ、自己自身への反省によって自己を身にひきうけようとすると、自己は自己の組織や必然性のうちにふくまれているあれこれの困難にぶつかる。 (…) この困難を前にして(それは空想によって見いだされるような単なる可能性であることもある)人間はたじろぐ。それは彼の生活の直接性を破り、生活の直接性と絶縁することを、彼にしいる。だが、彼はそれに耐ええないい、またそれを欲しもしない。( 79 頁)

彼は自己をいつもどんなときでも引き受けるというわけにはいかない。彼の自己に対する意識はふじゅうぶんなものだからである。彼はけっきょく、恣意的な時間だけ自己となる。

(…) ただ、遺憾ながら、それは自己ではない。自己自身へのそういうだらしのない関係は、けっして自己ではない。 (…) ( 81 頁)

ビール 2 リットル。

メモ 2006 年 12 月 13 日

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) 厳密にいうと、人間がもはや救いの可能性を発見しえない場合にのみ、信じるということがありうる。 (…) ( 58 頁)

誰もが絶望している。しかし、その絶望では不足なのだ。

(…) 神いとってはいっさいが可能であり、したがって神は人間にとって、いっさいが可能であるというそのことである。 (…) ( 59 頁)

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 12 日

アンパンマン・クラシック 1 アンパンマンたんじょう『アンパンマン・クラシック 1 アンパンマンたんじょう』やなせたかし原作 トムス・エンタテインメント作画(フレーベル館)。

やなせたかし氏の絵よりこっちのほうがなじみがあって。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) もし私の冒険が誤っていたとすれば、そのときには、人生があるいは罰でもって私を助けてくれるであろう。だがもし私が全然冒険をしなかったならば、そのときにはいったいだれがこの私を助けてくれるのか。 (…) ( 51 頁)

世間的な幸福のなかに自己はない。ただ、「一個の数、一個の人間」があるだけである。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 11 日

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) 人間は人間を恐れて、彼の本質的偶然性において彼自身であることを断念してはならぬ。人間はかかる本質的偶然性のなかで、自己自身に対してまさに自己であることができるのだ。 (…) ( 50 頁)

ここでいう《本質的偶然性》にパスカルはおののいた。

ビール 3.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 10 日

ビール 1.5 リットルで朝寝。

馬券は 1 戦 1 敗で 14 万円のマイナス。

息子が公園の石畳の上を走ってて転んだ。ごちんという鈍い音がしたのであわてて抱き起こしてみたら、おでこが擦りむけてて、早くもこぶになってきてる。かなり痛そう。でも、泣きかけたものの、泣かずに自分で歩き出した。

ママがシステム手帳を物色してるあいだ、息子とふたりで文具店をうろうろ。 MIDORI のマグネットのミニチュア感がいい。集めたくなる。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

 空想的なものとは、一般に、人間を無限なものへ連れ出し、かくして人間を自己から遠ざけ、人間が自己自身へ立ち返ることを妨げるものである。
 このように感情が空想的になるにつれて、自己はいよいよ希薄になってくる。 (…) ( 46 頁)

空想は「あらゆる能力を代表する能力であ」り、無限なものである。しかし、それが有限なものと統合されていないならば、その無限は抽象的なものでしかない。

(…) というのも彼はそれによっていよいよ彼自身を失うのだからである。 (…) ( 47 頁)

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 9 日

馬券は 5 戦全敗で 26 万円のマイナス。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) 人が絶望しているのはまれなことではない。まれなのは、ひとが真実、絶望していないことである。それこそ実にまれなことである。 (…) ( 34 頁)

誰もが絶望しているとキルケゴールはいう。つまり、自己との関係を正しく生きているものは誰もいない。では、自己との正しい関係とは何か。

(…) したがってこの展開は、自己を無限ならしめることによって自己を自己自身から解放すると同時に、自己を有限ならしめることによって自己を自己自身へと立ち返らせるところにあるのでなければならない。 (…) ( 44 頁)

ビール 1.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 8 日

組み立てクーゲルバーンがクリスマスのプレゼント候補になってる。だけど、おなじようなおもちゃにキュボロというのとスカリーノというのもあるらしい。それぞれについての調査を妻から命じられた。

そこで検索してみると、その 3 つを比較しているページが見つかった。木のおもちゃ がりとんさんによるキュボロ・組立てクーゲルバーン・スカリーノの比較紹介ページ。こちらによると組み立てクーゲルバーンとスカリーノは基尺が 4cm でキュボロは 5cm となってる。いまうちにあるアルビスブラン社の積み木は基尺が 4cm なので、同じく基尺 4cm の前者ふたつのほうが混ぜてあそぶときに組み合わせやすそうに思う。それに、玉をころがすのに勾配を利用しないというのは、クリスマスの時点で 2 才 6 か月のうちの息子にはむずかしい気もする。ということで、キュボロは候補から外すことに。

残るはふたつ。組み立てクーゲルバーンはレールのついた積み木じたいに角度がついているけど、スカリーノは直方体の積み木にレールだけ勾配をつけてほってある。スカリーノのほうが複雑な遊びができそうだけど、うちの子の年齢を考えるとクーゲルバーンのほうが直感的に遊べそう。プレゼントはなるべく早いうちに使えるもののほうがいいんで、クーゲルバーンのほうがいいかな。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

 絶望者は何ごとかについて絶望する。一瞬それはそのとおりだ。だがそれは一瞬間だけのことである。その同じ瞬間に、真の絶望いいかえれば絶望の真相が示される。彼が何ごとかについて絶望したというのは、ほんとうは自己自身について絶望したのであり、そこで彼は自己自身からのがれようと欲する。 (…) ( 28 頁)

絶望の最初のかたち。

メモ 2006 年 12 月 7 日

もうパパはパパではなく、はなちゃんであるかのようだ。プレイ好きな子だなあ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

(…) 絶望者は絶望しているあらゆる瞬間ごとに、絶望を自分から招きよせているのである。そこにはつねに現在の時がある。 (…) ( 25 頁)

絶望は外からくる不幸ではない。精神としての自己の主体的行為である。

ビール 3.5 リットル。

メモ 2006 年 12 月 6 日

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「死にいたる病」松浪信三郎訳。

 このように派生的に置かれた関係が人間の自己である。それは自己自身にかかわるとともに、この自己自身への関係において他者にかかわる関係である。 (…) ( 21 頁)

この関係を正しく生きられないとき、絶望が生じる。

 さて、絶望がまったく根こそぎにされた場合の自己の状態をいいあらわす公式は、こうである。自己が自己自身に関係しながら自己自身であろうと欲するときに、自己はこの自己を置いた力のうちに、はっきりと自己自身の根拠を見いだす。 (…) ( 21 頁)

ビール 1.5 リットル。