‘08メモ’ カテゴリーのアーカイブ

メモ 2007 年 1 月 30 日

2007 年 10 月 19 日 金曜日

宮城谷昌光全集 第三巻『宮城谷昌光全集 第三巻』(文藝春秋)、読了。

 古代中国の祭祀王朝というのは、この作者の資質にぴったりの場面設定だと思う。

メモ 2007 年 1 月 29 日

2007 年 10 月 19 日 金曜日

にこにこしながらバナナをむしゃむしゃ食べてると、まるでお猿の子どもだ。

『吉川英治全集 49 神州天馬侠』、読了。

何を血迷ったのか、何年か前に吉川英治全集を古本屋で買ってしまって、それいらい風呂につかりながらちびちび読んでる。あと何十冊あるのやら。

メモ 2007 年 1 月 28 日

2007 年 10 月 19 日 金曜日

馬券は 4 戦全敗で 12 万円のマイナス。

歎異抄『歎異抄』金子大栄校注(岩波文庫)。

(…) 親鸞にをきては、たゞ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にむまるゝたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。 (…) ( 43 頁)

覚悟というと肩に力がはいったような姿が連想されるけれども、ここにはそんな構えたところはみじんもない。

ビール 2.5 リットルといいちこの湯割り 3 杯。

メモ 2007 年 1 月 27 日

2007 年 10 月 19 日 金曜日

馬券は 3 戦全敗で 9 万円のマイナス。

福野礼一郎の宇宙 乙『福野礼一郎の宇宙 乙』福野礼一郎(双葉社)、読了。

 日本車と外車は違う。なぜ違うのか。
 日本と外国じゃ文化が違うからだといった奴がいる。まあそれはたぶんその通りだ。しかしそんじゃ例えば工場の中で図面片手、自動旋盤のプログラムと格闘している職人をつかまえて「あのさあこのネジ、なんかこうセンスねえんだよなあ。もっとラテンのロマンのたぎる血潮のイタリアンレッド、伝統と文化のロマネスクで切ってくれないかな」と頼んでみればいい。「すんませんじゃあそこの図面にそいつを ISO の寸法表示で書いといてください」と言われるだけである。( 169 頁)

 違いを雰囲気で語るな。その違いの原因をとことん考えろ。そう叱咤してくれる本。

 クルマは機械だ。機械は理屈が作る。理屈のかたまり、理屈の集大成だ。だからふたつの機械の違いは必ずすべて理屈で立証できる。( 169 頁)

ビール 2.5 リットルといいちこの湯割り 3 杯。

メモ 2007 年 1 月 26 日

2007 年 10 月 19 日 金曜日

かくれんぼが大好きで、家のなかでも「パパ、かくれんぼしよさ」といってきて、毎日かくれんぼをしてる。

歎異抄『歎異抄』金子大栄校注(岩波文庫)。

(…) しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへにと、云々。( 41 頁)

暗い部屋に急に光が満ちたように視界が一気に明るくなる、そんな言葉だ。

メモ 2007 年 1 月 25 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

小 3 までに育てたい算数脳『小 3 までに育てたい算数脳』高濱 正伸(健康ジャーナル社)、読了。

著者によると、「図形力」「空間認識力」などは小学校 3 年生くらいまでに完成してしまい、それまでに身に付けていないと以後いくら努力しても獲得できないものだという。そして、それらの力を持つ子と持たない子の間には、発想を問われるような問題において(さらに、発想を問われるような人生の場面において)絶対的で逆転不可能な溝があるのだという。

では、どうすればそれらの力が身につくのか ? という問いがとうぜん発生するわけだが、著者は「外遊び」を最も推奨する。

 空間認識で大事なのは、空間を空間そのものとして頭の中で再構成できる能力です。映画の「マトリックス」ではありませんが、立体的なモノを、自由自在に頭の中でくるくる回して、「ああ、こっちから見るとこう見えるのか」と、そういうことが、できる子はできます。これは、外遊びを筆頭とした体験でしか絶対に伸ばせない力です。( 204 頁)

上記引用以外にも頻出する自然賛美。しかし、自然が豊富な時代(あるいは地域)の生徒とそうでない時代(あるいは地域)の生徒の数学力の比較というような実証的なデータはひとつも示されない。すべてが塾講師という立場における経験からくるイメージを語ることに終止している。

だが、そもそも引用したような能力は遠近法なしにはありえないし、その遠近法はけっして「自然」なものではない。「制度」だ。著者のいう「自然」のような安易なイメージを語らず使用しないというところに学校教師に対して塾の講師が圧倒的に勝っている点があったはずなのだけれど、なぜかこの著者はそれを捨ててしまっている。

ビール 1 リットルといいちこの湯割り 4 杯。

メモ 2007 年 1 月 24 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

中野重治全集第二十六巻『中野重治全集第二十六巻』(筑摩書房)所収「あけびの花」「塵労鈔」、読了。同書読了。

 ふる里をふんぬんするものは必ずふる里から離れたところにいる。むろん空間的に離れているが、必ずしも空間的にだけではない。 (…) ( 277 頁)

 私は考えるが、どこかの村に生れて、生涯そこから出なかつたものには、「ふる里」の感覚がない。 (…) ( 277 頁)

これはまさにそうだろう。生まれたところにずっと住んでいるものには、「ふる里」というものはわからないだろう。

(…) かえらぬ「ふる里恋し」の思いになやむ人びとは、それだけ、ふる里にこもりつきりの人びとよりも、どこかで成長していることを喜んで悪いということがあるだろうか。 (…) ( 278 頁)

たしかにそうだけれども、出た出ないは相対的なものでしかない。たとえば私は、県は出たが国は出ていない。

 それならば日本国はどうなるか。日本国にしても変わりはない。東京都にいて、やれスモッグだ、溝の匂いだ、トラックにひき殺されたといつている限り、そこから一歩も出ぬ限り、日本国をふる里扱いする感覚は生まれない。 (…) ( 279 頁)

ビール 1.5 リットルといいちこの湯割り 3 杯。

メモ 2007 年 1 月 23 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

サイトをブログ化。やっと RSS を吐ける。

中野重治全集第二十六巻『中野重治全集第二十六巻』(筑摩書房)所収「あけびの花」。

 あたたかい家庭、円満な家庭というものは決して悪いものではなかろう。ほとんどいいものでさえあろう。しかし私は、家庭円満の秘訣、妻を愛する方法について述べた文章を、まだ一度も尊敬の思いで読んだことがない。 (…) ( 178 頁)

そういえば私もそうだ。なぜなのか。

(…) けれども、自分たちの家庭が円満だと考えている人びとの、その円満の秘密について語る文章は総じて厳粛でない。そこに一抹の悲しさがない。ひとはけの愛嬌がない。( 178 頁)

たしかに、自らの家庭を円満だと考え、あまつさえその「円満の秘密」などを語ってしまうような精神からは、あたたかみが感じられない。

 親子は喧嘩する。夫婦はつかみ合う。それでもあたたかいのが家庭のあたたかさというものではないか。 (…) ( 179 頁)

ビール 1.5 リットルといいちこの湯割り 2 杯。

メモ 2007 年 1 月 22 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

中野重治全集第二十六巻『中野重治全集第二十六巻』(筑摩書房)所収「あけびの花」。

 そこで僕は考えるのだが、いつたい、才能は天賦のたまものであり、「努力は意志さへ鞏固ならば必ずしも人を選ばない」ものなのかどうか、仮りにそうだとした場合、この「意志さへ鞏固ならば」という鞏固な意志がどこから来るのかということがよくわからぬではないか。 (…) ( 149 頁)

努力できるというそのことこそ才能なんだろう。

メモ 2007 年 1 月 21 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

馬券は 6 戦 1 勝で 1 万 5 千円のマイナス。

中野重治全集第二十六巻『中野重治全集第二十六巻』(筑摩書房)所収「あけびの花」。

(…) 現に食堂の係りの人の話をきいてみると、あるとき一体に女工たちの仕事能率がさがつてきた。そこでいろいろに考えた末、朝めしに味噌汁を一ぱいずつ食わせることにした。つまりそれまでは朝めしに味噌汁がなかつたのである。するとテキメン、さがつた能率がぐんぐんあがつてきたということだつた。( 141 頁)

これはビタミンとか以前に、塩分の問題なんだろう。

メモ 2007 年 1 月 20 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

馬券は 2 戦 2 敗で 11 万円のマイナス。

修理が終ったとのことで妻が車をとってきてくれてた。現行型のかな、ウェザーストリップの規格が変わっててドアを閉めたときの感覚がだいぶ違う。

中野重治全集第二十六巻『中野重治全集第二十六巻』(筑摩書房)所収「あけびの花」。

 自分が立つて席をゆずる。しかしそこへおばあさんが気持ちよく掛けてくれるとは限らない。自分よりも後に立つた人のところへさつさと掛けてしまつたりなんかする。むろんそれはそれでかまわない。けれども、大学生なんかの魂というものは若芽のようなもので、それはそれでかまわないと心では思つてみても、それをそれなりすらりと呑みこんでしまうことがそう簡単にはできないらしい。 (…) ( 130 頁)

自分の心が未だにここでいわれる《若芽》のようであることが苦痛でもあり恥ずかしくもある。

 しかしそれにそても、多少の勇気をふるつて事に処するほうが、結局のところは我ひと共にためになるらしいことをこのごろ痛切に思う。( 130 頁)

(…) つまり、できそうでいてできぬことなどという言葉を私も使ったが、ほんとうには、できなさそうでいて実はできることのほうが多いんではないかと思うのである。 (…) ( 134 頁)

できることは急には増えないだろうけれど、努力していれば少しずつでも必ず増えていくだろう。そう考えると生きるのも悪くないと思える。

メモ 2007 年 1 月 19 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

中野重治全集第二十六巻『中野重治全集第二十六巻』(筑摩書房)所収「あけびの花」。

(…) 誠実が誠実として問題にされるのは、やはり消極的なものや失敗を含むものやに限られていて、驀進的な成功となれば、もはや抽きだされたものとして誠実が問題にされることはない。 (…) ( 122 頁)

しかし、それゆえに誠実が問題とされぬように誠実であらねばならない。

メモ 2007 年 1 月 18 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

WordPress のテーマをいじってみる。 CSS を書くのがめんどう。

部品が入ったとのことで、 B4 をディーラーに預ける。

中野重治全集第二十六巻『中野重治全集第二十六巻』(筑摩書房)所収「あけびの花」。

(…) 二十五、六までの私は夢の多い人間でした。三十くらいまでの、あるいは三十五、六くらいまでの私は少なくとも傲慢な人間でした。しかし四十にも近い今となつては、自分というものにもあらかた見当がついたという感じです。( 100 頁)

たしかに、四十が近くなると、自分というものに対する幻想がなくなる。

 むろん私は、何かをあきらめた人間ではありません。( 101 頁)

ビール 1 リットルといいちこの湯割り 5 杯。

メモ 2007 年 1 月 17 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

中野重治全集第二十六巻『中野重治全集第二十六巻』(筑摩書房)所収「あけびの花」。

(…) それから僕は電話がきらいで、相手が出てこないうちに交換手に叱られてすごすご引きさがるのが常だつたが、これも稽古してこのごろは何とかなるようになつた。 (…) ( 33 頁)

自らの愚鈍さをなのか、進歩をなのか、なんなのかよくわからないが、とにかくゆるがぬ自己認識。適当な表現ではないと自ら思うものの無理にいえば、中野重治は私にはおっさんくさく感じられる。

ビール 0.5 リットルといいちこの湯割り 4 杯。

メモ 2007 年 1 月 16 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

大西巨人文選 4  遼遠  1986-1996 大西巨人文選 4 遼遠 1986-1996 (みすず書房)、読了。

(…) 「イデオロギーあるいは思想批評」とは、特定の「イデオロギーあるいは思想」を物差しとして作品を裁断することなんかではなく、「作品に具体化せられたイデオロギーあるいは思想」を批判吟味することである。( 411 頁)

後者を行うものを、前者と行うものと、混同して非難するという現象が多々存在する。

メモ 2007 年 1 月 15 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

WordPress のテーマ探し。これというものもなく、けっきょくデフォルトに。リキッド 2 カラムでいいのないかな。

宮城谷昌光全集 第一巻『宮城谷昌光全集 第一巻』(文藝春秋)、読了。

あっさり。脂気がまったくない文章。とりあえず、そこは長所とする。でもこのひとスケベだよな。清純スケベ。

メモ 2007 年 1 月 14 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

馬券は 3 戦全敗で 11 万円のマイナス。

レガシィのドア落ちの修理にディーラーへ。破れたウェザーストリップもふくめて、保証で治すとのこと。部品が入ってから入庫するということに。ついでに 24 か月点検とオイル交換も依頼しておいた。

大西巨人文選 4  遼遠  1986-1996 大西巨人文選 4 遼遠 1986-1996 (みすず書房)。

 ――ある作家が、一日に十時間~十四、五時間ほど机に向かい、格闘精進して、やっと半枚〔四百字詰め原稿用紙。以下同断〕を書く。一カ月にして、作物は、十五枚になる。かくて一年にして、百八十枚が、溜まる。……
 ――その作家が、一年の終わりに、自作百八十枚をつくづく読み返し、『おれは、こんなことを書こうと考えていたろうか。考えていなかったのではないようだけれども、しかし同時に、もしあの絞り出すような牛歩の格闘精進一年間がなかったら、おれがある意味において初手は考えてもいなかったようなこの百八十枚の内容(表現)は、出現しなかったろう。たしかにそこには、何か存外なものが、付加せられている。』と思い得たとき、それが、「インスピレーション」の結実でなければならない。 (…) ( 239 頁)

大西巨人による上のインスピレーションの解釈は、「瞬間的なもの、ひらめきの類」と限定してしまいがちなインスピレーションの、もっと大切な面に気づかせてくれる。

メモ 2007 年 1 月 13 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

馬券は 4 戦全敗で 12 万円のマイナス。

WordPress をインストール。文字化けで悩むも、なんとか解決。

大西巨人文選 4  遼遠  1986-1996 大西巨人文選 4 遼遠 1986-1996 (みすず書房)。

(…) 私が「リアル・ポリティックス」から(同義的な語句として)主として連想するのは、「勝てば官軍。」であり、「長い物には巻かれよ。」であり、「水清ければ魚棲まず。」であり、「金の世の中。」であり、「正直者がバカを見る。」であり、その類である。( 124 頁)

リアル・ポリティクスを標榜する人間は、マキャベリほどにも現実を見ていないし、マキャベリほどにも理想を追っていない。人生に居直っている。

ビール 0.5 リットルと焼酎の湯割 4 杯。

メモ 2007 年 1 月 12 日

2007 年 10 月 15 日 月曜日

龍が如く『龍が如く』を購入。まずまずおもしろいものの熱中するほどではない。シナリオを筆頭に、練りこみの足りなさが目立つ。

大西巨人文選 4  遼遠  1986-1996 大西巨人文選 4 遼遠 1986-1996 (みすず書房)。

 事件の解明も犯人の特定も行われなくて構わぬのなら、これほど気楽な作業はなく、作者は、たくさんの一見奇奇怪怪な出来事や人物やを次ぎ次ぎにならべ立て、読者をハラハラドキドキ惑わせたり恐ろしがらせたりしておいて、とどのつまり何一つ解決をも判明をも提示しない、――それは、興味本位小説エンターテインメントの場合でも、まったく無茶苦茶な(愚劣ないし悪辣な)作物である。( 75 頁)

そういや、引用した文にぴったり当てはまるような「愚劣ないし悪辣な」ゴミアニメがあったそうだが、近ごろ聞いたところによると、再度映画化されるらしい。

ビール 2.5 リットルと焼酎の湯割 5 杯。

メモ 2007 年 1 月 11 日

2007 年 6 月 5 日 火曜日

ようやく MySQL にログインできた。これでやっと Movable Type をインストールできる。しかし、使用するブログソフトは Movable Type から WordPress に変更することにした。買っておいた Movable Type のマニュアル本 3 冊は無駄になるものの、いろいろ調べたところでは圧倒的に後者のほうが好みだったのでしょうがない。

大西巨人文選 4  遼遠  1986-1996 大西巨人文選 4 遼遠 1986-1996 (みすず書房)。

(…) 東京新宿某ストリップ劇場の演し物広告看板に、私は、「芸術祭不参加作品」という鮮烈な文句を見出して、たいそう感心した。
 それで私は、下のように考える、――出版社は、たとえば私の作物を刊行・販売する際、宣伝広告に「ノーベル賞不受賞作品」、「日本文学大賞非候補作品」、「各文学賞不受賞作家の新著」、「東宝映画化未決定」、「 NHK テレビ大河ドラマ化非決定」などのキャッチ・フレーズないしコピーを用いたらよろしかろう。 (…) ( 27 頁)

ここには自信はあるが強がりはない。そこから不思議なユーモアが生じている。

ビール 2 リットル。

メモ 2007 年 1 月 10 日

2007 年 6 月 4 日 月曜日

福野礼一郎の宇宙 甲『福野礼一郎の宇宙 甲』福野礼一郎(双葉社)、読了。

原因と結果の連鎖を知るってのはなんにせよ気持ちいい。キカイがますます好きになる。

ビール 3.5 リットル。

メモ 2007 年 1 月 9 日

2007 年 6 月 4 日 月曜日

MySQL の作成とログインができず、いまだに Movable Type の設置ができない。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳、読了。同書読了。

(…) そこにあるのはただ「むなしき空と海」であるところの、あの抽象的な無限性のひろびろとした展望に、一瞬、悦楽をおぼえたとき、こうなっては個々人はひとりひとりが単独で自分自身を救わなければならないわけだから、そのときこそ「働き」が始まるのである。 (…) ( 259 頁)

ここで私は、『堕落論』の安吾を想起する。

ビール 2.5 リットル。

メモ 2007 年 1 月 8 日

2007 年 6 月 4 日 月曜日

馬券は 3 戦全敗で 11 万円のマイナス。

 0 ~ 4 歳 わが子の発達に合わせた  1 日 30 分間「語りかけ」育児 0 ~ 4 歳 わが子の発達に合わせた 1 日 30 分間「語りかけ」育児』サリー・ウォード著 汐見稔幸監修 槙朝子訳(小学館)、読了。

3 回目くらいの通読。子どもと話すときはゆっくりとということからはじまって、能力を試すような質問をしない・言葉の間違いをいきなり否定しないなど、子どもと接するうえで意外と見過ごしてしまうようなことを教えてくれる本。

自己の理論が万能という育児手法の本にありがちな弊害もすくないほうだと思う。良書。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2007 年 1 月 7 日

2007 年 6 月 4 日 月曜日

ビール 1 リットルで朝寝。

馬券は 6 戦 1 勝で 1 万円のマイナス。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

 理屈をこねるとはいかなることか。それは主体性と客観性との情熱的な分離が止揚された結果である。 (…) ( 250 頁)

ほんとうに論理的なひとは「理屈をこね」ない。かれは対象と本質的に(倫理的に)かかわる。それゆえ、かれは、外延的なかかわりをしかもたないものとかかわる時間などないからだ。「理屈をこねる」ものには戯れの時間と対象とが無限にある。

ビール 2 リットル。

メモ 2007 年 1 月 6 日

2007 年 6 月 4 日 月曜日

ビール 1 リットルで朝寝。

馬券は 4 戦 1 勝で 9 万 9 千円のマイナス。

司馬遼太郎が考えたこと エッセイ  1985.1 ~ 1987.5  13 『司馬遼太郎が考えたこと エッセイ 1985.1 ~ 1987.5  13 』司馬遼太郎(新潮社)、読了。

司馬のアジア関係の本って売れてるのかな。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2007 年 1 月 5 日

2007 年 5 月 30 日 水曜日

Movable Type のインストールを試みたものの、データベースの設定で行き詰まる。以前のべつのサーバーでインストールしたときはこれといった支障もなく終ったのだが、今回はうまくいかず。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

 浮気とは何か。それは本質的に愛することと本質的に遊蕩であることとの情熱的な分離が止揚された結果である。 (…) 「浮気」は可能性と戯れるのである。 (…) ( 250 頁)

「浮気」をするものには内面性がない。それゆえ彼は現実と倫理的な関係にはいることはない。もちろん、ここでいう「現実」には浮気のあいてもふくまれる。

ビール 1.5 リットル。

メモ 2007 年 1 月 4 日

2007 年 5 月 30 日 水曜日

胃が痛苦しくて目が覚める。正月は胃に負担がかかるというか、胃に負担をかけてしまう。

お昼すぎまで家でのんびり。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 「原理」 Principium とは、その語が意味するとおり、「第一のもの」いいかえれば「 実体的サブスタンシアルなもの」で、みずからの内的衝動によって個人を推進するところの「感情とか感激とかいった、いまだ開顕していない形における理念」である。ところが、これが情熱のない者には欠けている。 (…) ( 246 頁)

これがキルケゴールにおける原理の定義である。キルケゴールは、「原理のために」行動するものはこのような原理を欠いているのだという。

(…) 情熱のない者にとっては、原理は、そのために彼があることをなし、また別のことをもなし、またその反対のことをなすような、なにか外的なものになる。情熱のない者の生活は「自己を開顕し展開する原理」ではなく、むしろ彼の内的生活は、常に途上にあって「原理のために」何ごとかをなそうと追いもとめているところの、せわしない何ものかなのである。 (…) ( 246 頁)

ここでは、近年さまざまなかたちで我々の周りに露出した原理主義というものが、キルケゴールによって、正確に考察されている。

(…) 原理は、いまや、最もつまらない人間でさえ最もつまらない行動にそれをつけ加えて、そして自分自身をかぎりなく重要なものに仕立てるところの、怪物じみた何ものかである。 (…) ひとは原理のためにすべてのことをなすことができて、しかも各人の人格的責任をまぬがれることができるのである。 (…) ( 247 頁)

ビール 2 リットル。

メモ 2007 年 1 月 3 日

2007 年 5 月 30 日 水曜日

四国へ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 何事かを本源的に体験する者ならだれしも、その体験と同時に、観念的に、その体験の諸可能性とその反対の可能性とを体験するものである。これらの諸可能性は、彼の文学的な合法的財産なのである。しかしながら、彼自身の私的な人格的現実となると、そうはいかない。 (…) ( 241 頁)

ある体験をしたとき、ひとは、その体験が現実にそうあったのとは異なったかたちで起こりえたかもしれないという可能性をも、体験することができうる。ひとつの体験をするときにその体験における可能性をも含めて体験することは文学制作上のあるいは人生における豊かさである。ただし、そうするさい、自らの体験の現実性を忘れ、可能性だけとつきあうなら、その豊かさはただちにまぼろしとなる。

(…) なぜなら、観念性とは、反対のものとの均衡だからである。たとえば、ここに不幸になることによって製作するようになった男がいるとする。もし彼が実際に観念性によって制作に従事するようになったものであれば、彼は幸をも不幸をもおなじ慕情をもって制作するだろう。 (…) ( 242 頁)

ビール 2 リットル。

メモ 2006 年 1 月 2 日

2007 年 5 月 30 日 水曜日

母に頼まれた買い物をこなす。

新年の挨拶に従兄の家へ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

 饒舌とは何か。それは、黙することと語ることとの情熱的な分離の止揚である。本質的に黙しうる者だけが本質的に語りうるし、本質的に黙しうる者だけが本質的におこないうる。 (…) ( 240 頁)

饒舌は自分の外にあるすべてを話の種とし、どこまでもひろがっていく。そこには沈黙の内面性がない。

ビール 2.5 リットル。

メモ 2007 年 1 月 1 日

2007 年 5 月 29 日 火曜日

夜中に携帯で 2 ちゃんの格闘板を見ていたら、桜庭 - 秋山戦がえらい騒ぎになってる。「すっごいすべるよ」。なるほど、かんじんのところでつかまえられないわけだ。

新年のあいさつをして、凧あげへ。

30 年ほどの凧あげブランクのある私にとっては強すぎず弱すぎずのちょうどいい風で、ケロロカイトがどんどんあがっていく。

糸を持つ手を息子にかわる。糸をとおして風を感じられるのが新鮮なようだ。

『キルケゴール著作集 11 』(白水社)所収「現代の批判」飯島宗享訳。

(…) 「公共」は、古代においてはまったく発生しなかった概念である。 (…) 強力な共同生活がその具体性を充実させることがもはやなくなったときに初めて、印刷物がこの公共という抽象性を作り出すのであろう。そして、その公共たるや、なんらかの場や組織が同時にあるところで一体化されることもけっしてなければ、また一体化されることもけっしてありえない非現実的な単独の人々から成立していて、しかも常に一個の全体として確保されるものなのである。 (…) ( 229 頁)

キルケゴールのいう「公共」とは、たんに個々の人間が集まった集合というわけではない。それは階級や職業などを問わず、どんな者でも参加できるものである。かといって、どれだけ多くの人数が参加しようと、それは人数なのではない。それは塊であって、しかも数ではない。《それ自身がひとつの抽象性》である。

(…) このような人々から、いいかえれば彼らが無である諸瞬間における単独の人人から、作り成されたものとして、公共は、すべての人々であってしかもだれでもないところの、ある巨大なエトヴァスであり、抽象的な荒蕪地、無人界なのである。だが、同じその理由によって、だれもが公共を所有していると僭称することができる。 (…) ( 232 頁)

上記ふたつの引用などは、ポストモダン的な文脈における「大衆」を先取りして定義しているといってもいい。個体の単独性を重視するキルケゴールは、このような「公共」とそれがおこなう「水平化」を当然にも斥ける。ただし、最終的にはそこから抜け出すべきであるにせよ、その徹底した無差別化のはたらきのゆえに、「『完全な平等』の意味での一個の人間らしい本質的な人間」への、ひいては宗教性への契機になりうるという点において、キルケゴールはそれを一時的に評価するのである。

(…) だが、「個人性」の原理は、その永遠の真理においては、世代という抽象や水平化するものとしての平等を利用し、そうすることにより個人を、その個人自身の共働のもとで、宗教的にひとりの真に人間らしい人間にまで発展させるものである。 (…) ( 227 頁)

ビール 1.5 リットル。