『地中海  IV  出来事, 政治, 人間 1 』 フェルナン・ブローデル

地中海  IV  出来事, 政治, 人間 1 『地中海  IV  出来事, 政治, 人間 1 フェルナン・ブローデル 著 浜名優美 訳(藤原書店)、読了。

 出来事を旗印としてこの第III部を出版するのを私は大いにためらった。 (…) ( 11 頁)

トルコによるマルタ島攻撃にレパントの海戦といった「歴史的な」出来事やフェリーペ二世やドン・ファン・デ・アウストリアといった「歴史的な」人物がこの巻では語られていく。

といっても、歴史の進行の中心となるものとして、出来事や人物が語られるのではない。歴史のある瞬間を照明するのに必要な光源として、ブローデルはそれらを語ろうとしているのだ。

『神聖喜劇 第二巻』 大西巨人

『神聖喜劇 第二巻』大西巨人(光文社)、読了。

  (…) 軍国支配勢力・その同調追随者たちの主観とこの戦争現実との間には残忍な調和があり、ある日本人参戦者たちの「誠実純粋」な主観とこの戦争現実との間には無残な分裂がある。軍国支配勢力・その同調追随者たちは、その残忍な調和において、またある種の「誠実純粋」な日本人参戦者たちは、その無残な分裂において、いずれもひとしく結局この「道義および公正の単純な最高の法則」の「試金」に耐え得ず、ひいて両者の戦死は、いずれも共に果ては(自業自得の、もしくは非業非命の)犬死にでしかあり得ない。( 150 頁)

前途に現われるべき禍禍しい何物かの予感に満ちたこの小説で、大声で笑ってしまうような場面が不意に出現する。それはやはり底に禍禍しさをともなっていて、途方に暮れて感動してしまうような笑いだ。

『神聖喜劇 第一巻』 大西巨人

『神聖喜劇 第一巻』大西巨人(光文社)、読了。

今こそこの本を読む時機だろうと考えて、読みなおし始めた。といっても、著者の死がきっかけとなったのではない。読みなおしはじめたのは著者の死の前だった。

明晰であろうとする意志に支えられた大西巨人の文章は、しかし不思議なユーモアもそこかしこに感じられて、私のとても好きな文章だ。

ウィザードブックシリーズ 170 規律とトレンドフォロー売買法 ――上げ相場でも下げ相場でも利益を出す方法』 マイケル・ W ・コペル

ウィザードブックシリーズ 170  規律とトレンドフォロー売買法 ――上げ相場でも下げ相場でも利益を出す方法ウィザードブックシリーズ 170 規律とトレンドフォロー売買法 ――上げ相場でも下げ相場でも利益を出す方法マイケル・ W ・コペル 著 長尾慎太郎 監修 山口雅裕 訳(パンローリング)、読了。

 トレンドフォロワーのチャーリー・ライトは言う。「長い時間をかけて分かったことは、相場の動く理由も動く方向も本当はだれも理解していないということだ。あなたであれ、ほかのだれであれ、相場の動きが分かると思うのは幻想だ。 (…) 相場がいつ動くかは予測できないという最終結論に達したときに、トレーディングで成功し始めた。私の欲求不満は劇的に少なくなった。相場の予測も理解もできないからといって、何の問題もないと分かり、私の心は穏やかになった」( 377 頁)

上の言葉に、私は深く同意する。ところどころに素晴らしい言葉が出てくる本なのだが、やや散漫でかなり冗長なところを惜しく思った。

『スイッチ ! 「変われない」を変える方法』 チップ・ハース & ダン・ハース

スイッチ !  「変われない」を変える方法『スイッチ ! 「変われない」を変える方法チップ・ハース & ダン・ハース 著 千葉敏生 訳(早川書房)、読了。

(…) これと同じように、大事な約束に二〇分も遅れてハンドルの前に座れば、その人は乱暴なドライバーになるのだ。人間の問題に見えても、実は環境の問題であることが多いのだ。( 242 頁)

トレードで自分の欠点を改善しようとするとき、私は状況や環境の影響をおもく見る。何度も破ってしまっているルールを、決意だけで守ろうとしても無駄だからだ。決意で守れるようになるのならば、そもそも破りはしない。まずは工夫をすべきなのだ。

そういう工夫についてのガイド本だ。広く浅くといった内容なので、この分野に興味を持ちはじめた人むけかもしれない。

『地中海  III  集団の運命と全体の動き 2 』 フェルナン・ブローデル

地中海  III  集団の運命と全体の動き 2 『地中海  III  集団の運命と全体の動き 2 フェルナン・ブローデル 著 浜名優美 訳(藤原書店)、読了。

「帝国」「社会」「文明」「戦争の諸形態」といった章題のならぶ巻。「文明」から「帝国」を解明したり「社会」から「帝国」を解明したりといったような単純化は、ていねいに避けられている。

『凡庸な芸術家の肖像 (下)』 蓮實重彦

凡庸な芸術家の肖像 (下)『凡庸な芸術家の肖像 (下)』蓮實重彦(ちくま学芸文庫)、読了。

ギュスターヴの死と葬儀のあとで発表した『文学的回想』によって決定的に、マクシムはもっぱら攻撃の対象として生き続けることになる同時代への説話論的な戦略の不在が、彼をこうした孤立へと追いやってしまったからだ。「私は知っている、故に私は語ることができる」という説話論的な論理とはまったく異質の磁場が歴史的に形成されつつあったのだ。

(…) 説話論的な安心感とは、特権的な真実の証人を介することなく、不特定多数の読者という潜在的な話者たちの存在を前提として形成されるものだからである。( 361 頁)

マクシムが、いまや彼だけが知っているギュスターヴについての「真実」を語れば語るほど、読者にとってはそれを受け入れることが困難になっていく。そしてついに、読者の怒りを爆発させる一語を、マクシムは書き記してしまう。「神聖なる病」。癲癇のことだ。これによって読者の怒りは爆発する。

ギュスターヴの姪カロリーヌやモーパッサンたちからの非難。そしてさらに、ヴィクトル・ユゴーの国葬における弔辞役の件で、旧コミューン派の新聞からマクシムは総攻撃を受ける。誰からも許されることのない全会一致の敵意

そのようにして完成してしまったギュスターヴの才能を欠いた嫉妬深い友人マクシムという物語。その救いがたい凡庸さから、それよりも遥かに罪のないものに思われさえするマクシムの凡庸さを、この物語の終盤で、救おうとするかのような身振りを話者はする。それは胸の痛むような美しい一章だ。

しかし、読者の感傷的な気持ちは、つづく一章で肩すかしをくうことになる。晩年のマクシムは慈善事業への関心を示し、その研究に何冊もの書物を刊行することになったというのだ。絶句し、かるい混乱におちいってしまうほどの凡庸さ。ここには愚鈍に通じるなにかがあるのではないかと思わなくもない。

『気違い部落周游紀行 ――富山房百科文庫 31 ――』 きだみのる

気違い部落周游紀行 ――富山房百科文庫 31 ――『気違い部落周游紀行 ――富山房百科文庫 31 ――きだみのる(富山房百科文庫)、読了。

(…) あるときヨシ英雄が友だちとは何であるかと訊ねたので、それは迷惑をかけられるのが嬉しい奴のことよと答えると、それじゃ要らんもんじゃと云った。 (…) ( 114 頁)

この「それじゃ要らんもんじゃ」というのが、いまでも日本の共同体での一般的な実感だろう。友だちとは「迷惑をかけられるのが嬉しい奴」だという認識は、きだみのるのような「道徳を否む者」どうしのあいだにこそ成立する感情だ。それは道徳的ではないが倫理的なつながりだ。

『ギリシア哲学者列伝(下)』 ディオゲネス・ラエルティオス

ギリシア哲学者列伝(下)『ギリシア哲学者列伝(下)』ディオゲネス・ラエルティオス 著 加来彰俊 訳(岩波文庫)、読了。

(…) さらにまた、どのような状況のもとでは人は心を乱さずにいることができないか、 <また同様に、どのような状況のもとではそれが可能であるか> ということについて無知な人たち、そのような人たちすべてを、われわれは軽蔑しなければならない。 (…)( 265 頁)

エピクロスのこの言葉は、トレード手法を身に付けるときの本質を突いている。のではあるが、まだ負けている人にはこういう言葉の意味はわからないだろう。

この巻も多士済済で楽しく読めた。二流以下の本としては上出来だ。

 「さらに、思慮ある人は、よく考えることもなしに行動して幸運であるよりも、よく考えて行動しながら不運である方が、まさっていると信じている。 (…)( 308 頁)

『成功する練習の法則』 ダグ・レモフ エリカ・ウールウェイ ケイティ・イェッツイ

成功する練習の法則『成功する練習の法則』ダグ・レモフ エリカ・ウールウェイ ケイティ・イェッツイ 著 依田卓巳 訳(日本経済新聞社)、読了。

(…) 目標の数は制限し、達成されたときにどうなるかを具体的に理解しておかなければならない。( 97 頁)

たくさんの教師を指導し育成してきた著者たちが、その経験をもとに書いた本だ。つまりは練習「させる」側の視点から書かれているので、孤独なトレーダーにはやや縁のうすい内容だった。父親としてはいくつか覚えておくところはあったが。

ところで、つぎのところを読んだときには「な、なんだってー ! 」という顔になっていたはずだ。

(…) アメリカの国民がもっとも怖れるのは人前で話すことだというのは広く知られている。( 235 頁)

『凡庸な芸術家の肖像 (上)』 蓮實重彦

凡庸な芸術家の肖像 (上)『凡庸な芸術家の肖像 (上)』蓮實重彦(ちくま学芸文庫)、読了。

十九世紀最大の写真家として文化史に記憶されるナダールが職業写真家としてそのアトリエを開設する前の年に、すでにエジプト風景の写真集を発行していた相対的に聡明な芸術家マクシム・デュ・カン。後にも彼は、ガリバルディのシチリア遠征に従軍記者として参加し世界でもっとも早い時期に書かれた芸術家による戦争ルポルタージュの一つをものしたりするだろう。あるいはさらにその後、『二十世紀の後半にいたって不意に活況を呈するにいたる「都市論」を、作家たちにとっては決して不名誉でないばかりか、むしろその才能を発揮させうる刺激的な主題として開拓しもするだろう。

そのように聡明で、それゆえ凡庸であったマクシム。忘れ去られフロベールの才能を欠いた友人としてかすかに記憶されてきたマクシム。そんなマクシムを主人公として、現代に生きる私たちもまた逃れられないものとしての凡庸さが語られていく。

構造の要請をうらぎらない緻密な文体。蓮實重彦の著書のなかではこれがいちばん好きかもしれない。この本によって、すくなくとも日本ではマクシム・デュ・カンは誰もが知る名前になった。文学史的なエピソードにも満ちているので、つぎのような著者の意図に無関心なものでも楽しんで読めるのではないだろうか。

(…) 例外的な存在としての自分を確信するというこの典型的な非凡さへの意志、この意志に恵まれた凡庸な芸術家が不断に捏造され始めた一時期、つまりは詩人として生まれたわけではない非凡さの確信者たちがいたるところに生産されることで始まった文学の時代に、文学史を、特権的な才能がかたちづくる星座群のごときものとして思い描くことは、現実を抽象化しながらみずからの凡庸さを忘れようとする歴史回避の試みにほかなるまい。文学の歴史が、それについて人が語ろうとはしない凡庸さをめぐる言説でもなければならないのは、そうした理由による。( 112 頁)

『習慣の力  The Power of Habit 』 チャールズ・デュヒッグ

習慣の力  The Power of Habit 『習慣の力  The Power of Habit 』チャールズ・デュヒッグ 著 渡会圭子 訳(講談社)、読了。

(…) 試合中、選手があまりにも多くの決断をくだすのをやめさせたい。彼らが反射的に、習慣的に反応できるようにしたい。 (…) ( 99 頁)

NFL の有名コーチであるトニー・ダンジーのこの言葉は、私がトレードで目指している姿にとても近い。いつも言っているように、トレード中に複雑な判断をしなければならないようではどうしようもない。そんなことでは一貫性なんて期待できない。

たとえば、ダンジーが指導するまで各選手は相手チームの動きを全体的で複雑なものとして予想していた。ラインバッカーの場合だと、ガードはフォーメーションからはずれるだろうか ?  ランニングバックはこれから走るつもりなのか、それともパスするかといったようにだ。これではもたついてしまうことがあるダンジーの目的はブルックスの頭をこの手の一切の分析から解放することだった。全体を同時に考えるのではなく、順番に個々に判断していくのだ。

 これは比較的ささやかな変更だ。――ブルックスの目は同じきっかけに向けられるが、 1 度に複数の場所を見るのではなく、見る順番を決めて、それぞれのカギを目にした瞬間にどの選択肢を即座にとるべきかを教えた。このシステムが優れているのは、意思決定を不要にしたところだ。おかげでブルックスは今までより早く動けるようになった。すべては選択というより反応であり、それがのちには習慣となるからだ。( 124 頁)

習慣になってしまうと、それを実行するのは容易になる。意志力を必要としなくなるからだ。

 意志力が習慣になる過程はこうだ。ある行動を事前に決め、転換点が来たらそのルーチンに従う。( 206 頁)

意志の力でルールを守るのではなく、ルールを守ることが習慣になっている。そんなふうに生活とトレードを組み立てるためのヒントをこの本からいくつかもらった。

『カント全集 4 』

カント全集 4 『カント全集 4 』有福孝岳 訳(岩波書店)、読了。

『純粋理性批判』。心のベスト 10 第一位。ひさしぶりに読んでいる。とりあえず上巻読了。

 自然が統覚というわれわれの主観的根拠に準拠するはずであり、いやそれどころか実際にその合法則性に関して統覚に依存するはずであるということは、たしかにきわめて矛盾的で、奇異に思える。しかし、この自然自体が諸現象の総括に他ならず、したがって物自体ではなく、むしろ単に心性の諸表象の集合にすぎないということを一考すれば、自然を、単にわれわれのすべての認識の根源的能力において、すなわち超越論的統覚において、そのためにのみ自然がすべての可能的経験の客観、つまり自然と呼ばれるその統一において看取することは驚くことではないであろう。 (…) ( 190 頁)

おそろしいほどに過激なことをカントは書いている。しかし、奇矯な感じはまったく受けない。なぜなら、形而上学一般の可能性あるいは不可能性を決定すること、そして、形而上学の源泉と範囲を決定すること、しかし、一切を原理に基づいて規定することであるというこの批判の仕事の方法をカントが厳密に守っているからだ。たとえば、次の文章においても、悟性の認識能力の可能性と不可能性について、内容の過激さにもかかわらず、カントはさらっと平静に語っている。

(…) つまり、悟性はそれ自身自然に対する立法である。すなわち、悟性がなければどこにも自然は存在しないであろう。すなわち、規則に従った諸現象の多様の総合的統一は存在しないであろう。というのは、諸現象はそのようなものとしてはわれわれの外には生じえず、ただわれわれの感性の内にのみ存在するからである。 (…) ( 200 頁)

こんなにおもしろい本はめったにない。

(…) さて、感性的直観の多様を連結するものは構想力であるが、構想力は自らの知性的総合の統一に関しては悟性に依存し、把捉の多様に関しては感性に依存する。ところで、すべての可能的知覚は把捉の総合に依存するが、把捉の総合そのもの、つまりこうした経験的総合は超越論的総合、したがって諸カテゴリーに依存するので、すべての可能的知覚は、したがってまた、経験的意識につねに到りうるすべてのものも、すなわち、自然のすべての現象も、その結合に関しては諸カテゴリーに従わねばならないのであり、(単に自然一般として考察された)自然は自然の必然的合法則性の根源的根拠として(形式的に見られた自然 natura formaliter spectata として)の諸カテゴリーに依存するのである。(…) ( 230 頁)

『行動学入門』 三島由紀夫

 その時、真に有効な行動とは、自分の一身を犠牲にして、最も極端な効果をねらったテロリズム以外にはなくなるであろう。(…) ( 34 頁)

昭和 45 年 1 月初出というのだから、上記引用文を書いているときに、三島は自決のことをとうぜん考えていたであろう。三島が自身にたいして持とうとする悲愴感がこの本のそこかしこからつたわってくるのだが、私はその悲愴感にまったく同調できなかった。ここには自意識が残りすぎている。ここでの三島は、行動という観念に憑かれた行動無能力者でしかない。

『キルケゴール著作集 17 』

キルケゴール著作集 17 『キルケゴール著作集 17 』杉山好 訳(白水社)、読了。

(…) キリストがだれであるかを奇蹟の業ミラーケルによって証明する試みを無意味に終わらせまいとすれば、われわれは、キリストがだれであるかを知らない状態から出発せねばならない。言いかえれば、次のようなひとりの人間と同時にいる状況から出発せねばならない。それはほかの人々と同じ人間であって、直接的にはなんの見分けもつかないのに、奇蹟の業ミラーケルを行ない、また自分は奇蹟の業ミラーケルを行なうと告げる人物なのである。ということは、なにを意味するのか。このひとりの人間が、自分を人間以上の立場に置こうとすること、神に近い存在にのし上がろうとすることにほかならない。これは躓きではないか ? (…) ( 140 頁)

叙述 B での躓き。同時性。

自らを神であると告げるひとりの人間がいる。同時という状況においては、彼が神であることを証明するものはなにもない。同時という状況においては、彼が神であると「認識」することは不可能だ。「信じる」以外にない。

しかし、この「躓き」を消去したところでの「信仰」には、実は「信仰」が欠けているのだ。キルケゴールがキリスト教世界に再導入しようとしたのは、そのような意味での「躓き」とそれとの相関関係にある「信仰」である。

(…) 人類が神と血縁関係にある、またはあるべきだというのは、古代の異教である。それに対して、ひとりの人間が神であるというのが、キリスト教である。そしてこのひとりの人間が神人である。天にも、地にも、地の下にも、またこのうえなくばかげた空想の逸脱のなかにも、(人間的に言えば)これ以上に気ちがいじみた結合を生み出す可能性は見いだされないのである。同時性の状況において示される神人の姿は、そのようなものなのだ。そして、この同時性の状況から始める以外には、神人に対していかなる関係を持つことも不可能である。( 119 頁)

『アメリカ』 フランツ・カフカ

アメリカ『アメリカ』フランツ・カフカ 著 中井正文 訳(角川文庫)、読了。

文庫本で 450 ページ、一気に読みおわってしまった。めちゃくちゃにおもしろい。ひさしぶりに小説を読んだんだけれど、小説すげえ。

主人公が少年らしい少年なので『城』や『審判』にくらべて話に動きがあって、一気に読ませてくれる。ただ、主人公が置かれる状況にはやっぱり救いがない。といっても、悲惨なのではまったくない。暗くもない。むしろ一貫して明瞭だ。ただ単に、救いという概念が存在しないだけだ。

『確率論 (ケインズ全集第 8 巻)

確率論 (ケインズ全集第 8 巻)『確率論 (ケインズ全集第 8 巻)佐藤隆三 訳(東洋経済新報社)、読了。

(…) 個々の事例に付随する状況についてなんらの分析も行わないで, ある与えられた事象が観測された 1000 個の事例においていつも生起したという事実のみから, それは未来の事例においてもつねに生起することは確からしいと推論することは, 類比を少しも考慮に入れていないので, 弱い帰納的推論である. ( 465 頁)

確率を根本から問うた本だ。それを計量可能なものに限定せず、論理学的に徹底的に形式化することからはじめている。ケインズの最終的な目標は実践的なところにあったと思うのだが、そのためにこそこの本では形式化を徹底してやる必要があったのだろう。

数学と論理学の素養が皆無である私には、頭から煙が出るんじゃないかと思うほどに難解な本だった。それでも、ずっと興奮しながら読みすすんだし、確率について数えきれないほどの示唆をあたえてくれた。どこを開いても考えるヒントに満ちている。今回はノートもろくにとらずに通読しただけなので、何年かのうちに精読するつもりだ。

ただ、そのためには基礎学力をもっとつけないと話にならない。数学は、息子の成長にあわせて、算数からいっしょにやっていくとするか。

そして、フレーゲとラッセル。そこからまたウィトゲンシュタインへ。

(…) 推論はすでにもっている推定の根拠を強化することしかできない. それは予想を生み出すことはできない. ( 485 頁)

インディケーターのパラメータいじりがなぜダメなのか、よくわかる言葉だ。

『地中海  II  集団の運命と全体の動き 1 』 フェルナン・ブローデル

地中海  II  集団の運命と全体の動き 1 『地中海  II  集団の運命と全体の動き 1 フェルナン・ブローデル 著 浜名優美 訳(藤原書店)、読了。

経済についての巻。地中海の経済構造と外からのそれへの影響が語られる。貧しい人々の食べているパンの材料といった微視的視点とアメリカ大陸からの銀の流入量とスペインを経由してのその地中海への経路といったような巨視的視点を織り交ぜる手腕にうならされる。

『ギリシア哲学者列伝(中)』 ディオゲネス・ラエルティオス

 また、自分自身に話しかけている孤独な男に対して、「君が話しかけている相手は、決してつまらない人間ではないよ」と彼は言ってやった。( 345 頁)

クレアンテスのこの言葉は、自らも孤独を知る人からしか出てこないやさしい言葉だ。

そしてもちろん、ディオゲネスの数々のエピソードはとても魅力的で、この巻の目玉になっている。それらにはプラトンが消してしまったものが息づいている。

『クルマはかくして作られる 4 レクサス LFA の設計と生産』 福野礼一郎

クルマはかくして作られる 4  レクサス LFA の設計と生産『クルマはかくして作られる 4 レクサス LFA の設計と生産』福野礼一郎(カーグラフィック)、読了。

豊富な写真でそれぞれをパーツのとんでもない質感を感じては濡れ濡れになり、 LFA という車に一貫されている開発陣の設計思想に唸らされ、そしてそれぞれの部品製作の現場の技術力と情熱にため息をつく。本当に素晴らしい本で、恐ろしい車だ。各工場の生産現場の方々も、めちゃくちゃかっこいい。

「 LFA のトルクチューブは、バナジウム鋼の丸棒をそっくり機械加工でくり抜いて、 1 本 1 本手作りしている」(…)( 162 頁)

というような一文だけで誰でもしびれてしまうとは思う。こんな情熱がすべてのパーツの設計・生産・品質管理につぎ込まれているのだ。

しかも、匠技の手作り的なところだけが LFA の魅力なのではない。このピュアスポーツなスーパーカーに注ぎ込まれた先端技術のいくつかは、いつか一般的な市販車にまで降りてくるんじゃないかというような、そんな期待を抱かせてくれるのだ。

たとえば、ウルトラモダンなシートに採用された「セルフセンタリング」という革新的な理論は、 10 年後にはトヨタ製スポーツカーのシートのクッションに採用されているかもしれない。 700 系以降の新幹線のアルミ車体に使われているという「ダブルスキン構造」と呼ばれる技術を使って作られた LFA の衝撃収集部材だって、その構造が 10 年後のレクサス車に採用されている可能性はある。アッシー重量 2250g という、世界に類例のない超軽量ヘッドランプを実現した設計と生産の技術のいくつかは、もうすでに一般的なヘッドランプの生産に活用されていっているのではないだろうか。この本を読んでいると、そんな期待がつぎつぎに湧いてくる。まさに夢の車だ。こんなものが世の中に存在するという事実だけでうれしくなってしまう。

1972 年にタカタの高田武三社長が考案しその後もタカタの社内で途切れることなく継続したというエアベルトの研究・開発がエアバッグ内蔵式シートベルトとして LFA でついに実現したというエピソードなんて、鳥肌ものだった。

こういう本を読んでしまうと、 LFA はあの車やこの車より素晴らしいだとかそういうことを、逆に簡単には言えなくなる。しかしでも、やっぱり素晴らしい情熱で、素晴らしい本で、素晴らしい車だ。元気が出る。

『まぐれ――投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか』 ナシーム・ニコラス・タレブ

まぐれ――投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか『まぐれ――投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのかナシーム・ニコラス・タレブ 著 望月衛 訳(ダイヤモンド社)、読了。

 話していて一番イライラするのは、どう行動すべきかを説教する連中だ。どう行動すべきかなんてみんな知っている。問題なのはどうやって実行するかで、何をすべきかではない。(…)( 281 頁)

本書で著者は、確率や統計や不確実性について間違った考えを持っているバカを徹底的に罵っている。その本書の終わりのほうに出てくる文章だ。

確率論を学んでも、確率論を受け入れた生き方ができるとは限らない。不確実性についての知識をいくら積んでも、人生において不確実性を受け入れられるようになるとは限らない。

そもそも、人間はそんなものを受け入れられるようにはできていないのだから。しかし、トレーダーとして生きていくためには、トレードという場所ではそれらを受け入れることが絶対条件だ。そしてやっぱり、トレードで不確実性を受け入れるためには、人生でそれを受け入れる努力をし続けるしかない。

docomo のガラケーから iPhone 5s へ機種変更したあとで、ドコモケータイ datalink から iphone へ連絡先を移行したときの覚え書き。

当方の環境やら使用ソフトは次のもの。 Windows 7 64bit ・ iPhone 5s(iOS 7.0.2) ・ドコモケータイ datalink(datalink ver.1.9.5.19) ・ Microsoft Outlook 2010 。

docomoからiPhoneへほぼ完全にアドレス帳を移行する ( logる)という記事を参考にさせていただいて作業した。たくさんの画像とともにわかりやすく解説してくださっているので、ほとんど迷うことなく移行を終えることができた。ありがとうございます。これから同じ作業をされる方も、『logる』さんのさきほどの記事を参考にするとはかどると思う。

ただ、私の環境では iTunes で「連絡先の同期先」で Outlook を選択できなかったので、私が使った解決策を書いておく。

iPhone の「設定」で、「 iCloud 」の項目「連絡先」をオフにする。これで iTunes の 「~の iPhone 」の「情報」タブで連絡先の同期先で Outlook が選択できるようになる。同期が完了したら前記の設定は元に戻しておく。これで無事に移行できた。

『地中海  I 環境の役割』 フェルナン・ブローデル

地中海  I 環境の役割『地中海  I 環境の役割』フェルナン・ブローデル 著 浜名優美 訳(藤原書店)、読了。

この古典的名著は、地中海について「まず初めに山地」から説いていく。「あるいは最大規模の地中海」としてサハラ砂漠や大西洋についても論及する。

ただの歴史学者には書けないすばらしい歴史書だ。次のような文章を書くには歴史学者であるだけでは無理だろう。

(…) 人々の生活が危険にさらされるには雨不足や気温の急変があれば十分である。そのとき、すべてが変わる。政治さえも変わる。 (…)( 404 頁)

訳文もまたすばらしい。

『ギリシア哲学者列伝(上)』 ディオゲネス・ラエルティオス

ギリシア哲学者列伝(上)『ギリシア哲学者列伝(上)』ディオゲネス・ラエルティオス 著 加来彰俊 訳(岩波文庫)、読了。

学説どうこうではなく、単純にエピソード集としてめっぽう面白い。アリスティッポスだとか、魅力的な人物が次々に出てくる。もちろん、ソクラテスも。

主だった哲学者には著者のラエルティオスが詩を捧げているのだけれど、それがどれもへったくそなのも微笑ましい。

『キルケゴール著作集 16 』

キルケゴール著作集 16 『キルケゴール著作集 16 』武藤一雄・芦津丈夫 訳(白水社)、読了。

(…) なぜなら、真にキリスト教的なるものとはいつも、自然的な人間がもっとも容易に、かつもっとも素直に理解し得ることの正反対をなすものであるから。 (…) ( 163 頁)

それゆえ、真にキリスト教的なものについて語るには、単独者として「キリスト教に反抗して」語るほかはない。